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健太 三週目に突入

健太のフルマラソンはふらふらになりながらも三週目に入った。脳裏に過る、父の不幸と妹の苦悩。周回遅れで、次々抜かされていく。もうしんどくて走るのをやめたかった。

4 ■ 三周目


 走り出して三時間がたとうとしていた。足はまるっきり上がらなくなっていた。舗装されたサイクリングロードに、シューズが接地するたびにズリズリ擦れる音を立てた。 

 体が揺れていたのだろう。健太の脇を追い抜こうとするランナーの肩が当たった。ドスンと衝撃があった。

「うぉっ!」

 どちらからともなく声があがった。

 健太の体勢は転倒しそうに大きく揺らいだ。

 追い抜いたランナーは振り返ると、片手をあげると小さく頭を下げた。勢いを落とさずにそのまま走り去っていった。健太には、スミマセンと、頭を下げてお詫びする時間も与えずに。

 すでに膝ばかりか腰にも異変があった。これまでも痛みを感じていたのだが、それがどんよりとした重だるさに代わっていた。この感覚がよい方向へ向かっているのか、そうでないのかは分からない。呼吸も激しさを増していた。息を吐くごとに肺の膜が一枚一枚剥がれてゆきそうだ。

 生まれてからの一七年間で味わったことのない辛さだった。じわりじわりと追い詰められていき、どこにも逃げ場を見いだせない苦しさ。

   

 半年前に突然悲劇が襲った。四六歳という若さで父が死んだ。すい臓がんだった。病気がわかったときはすでに手の施しようがなく、三か月間の闘病生活の末にこの世を去った。

 母と健太と妹の三人が残された。健太は高校二年、妹は中学三年。

 父の死後、母は結婚後に辞めていた看護師の仕事に戻った。母は自分が働くから、健太と妹は何も心配しなくてもよいといった。母の給料と父が残していった生命保険でなんとかなるという。しかし健太にも妹にも、母がいうようには、父の生前通りの生活ができないことがわかっていた。

 健太は公立の進学校に通っていたが、大学への進学のさい、金のかかる東京の私立大学の選択はあきらめざるを得なかった。もっとも東京の大学に特に行きたいというわけではなかったが……。

 葬儀が終わって半月余りがたっていた。父のいない家では、廊下を歩くときの軋みさえも、家中に染みわたるようになった。夜遅く廊下を歩く気配がすると、妹が健太の部屋に入ってきた。

 妹はうつむいていた。

「兄ちゃん。わたし、いまの学校をやめて、公立中学にいったほうがいいのかなぁ……」

 妹は英語教育の進んだ、中高一貫の私立に通っていた。母子家庭となった我が家では、私立の中高に通学することが贅沢じゃないのか、といいだしたのだ。

 妹は小さいころより社交的で前向きだった。小学校高学年となると、英語への憧れを抱きだして、中学受験の勉強もして、私立の中高一貫の進学校へ入学した。おまけに健太と違って、スポーツもできた。バレーボール部に所属していた。

 兄である健太はそれに反して、人と接するのを好まずに、団体行動を嫌い、隅っこにいた。そのくせ人と比較されて、劣っているとレッテルを貼られるのは嫌だった。人並みに勉強して、現在の公立の進学校にいる。

 対照的な性格の兄と妹であった。

 健太は聞いた。

「学校には仲の良い友達がいるのか? 楽しいか?」

 妹は首を縦にふった。

「そうだよな。おまえはバレーボール部のみんなと仲がいいからな。クラスにも友達いるんだろうな」

「みんな、仲のいい子ばっかり……」

 みるみる妹の目が充血してきた。これ以上顔を見ているのが辛くなった。

「学校を変わることはない。家だっておまえの学費ぐらいは払えるよ」

 そういって健太は妹の心配を拭い去ろうとした。実際のところ家の家計がどうなっているかは知らなかった。

 もし健太が逆に妹のいる中高一貫校にいたら、大して悩まずに転校するだろう。学校生活が楽しいわけではない。


 ぐらぐらしている。きっと不格好な走りだろう。前に進んでいるが、体ごと崩れ落ちそうだ。

河川敷の堤防に応援に来てくれている妹は、ヘッドフォンで英語を聞いている。妹の前を通り過ぎて、丸三周(三一.六五キロメートル)を走り終えようとしていた。

 スタートラインをまたぐのは、最初のスタートを数えると四度目となる。すぐ横には、簡易テントで設けられた大会本部がある。緑色の野球帽を被った数人の係員たちがそこに詰めている。

「あと一周だ。がんばれ!」

「へこたれるな!」

「青少年。負けるな!」

「マイペース。マイペース!」

 係員たちがいろんな言葉で応援をする。

 この大会には制限時間が設けられていない。ランナーに走る意志がある限り係員たちが待っていてくれる。寛容な大会であった。

 電光掲示板の示すタイムは四時間二〇分と刻まれていた。健太が走り始めてからの経過時間だ。

 隣り合わせに設けられているゴールゲートには、大人のランナーたちが次々と飛び込んでいく。汗でぐしょぐしょになった顔に達成感を浮かべている。

 大人たちには持久力があるが自分にはない。すべてのランナーが自分より長く生きていて大人だった。

まだ健太には最後の一周が残っていた。ここで棄権したのなら、同級生の彼女はどう思うのだろう?

 苦しい……。やめたい……。


     ( 続く )

 


健太の足は止まるのか?

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