健太 二周目を走る
健太のマラソンは周回コースの二周目に入った。練習でも走ったことのない距離に突入した。心がくじけそうになる健太に給水所の女の子が声をかける。
3 ■ 二周目
二周目からの距離は練習では走ったことがない未知の領域だった。時間も一時間半をこえていた。いまでも走ることができるのは、大会本番という緊張感がなせる技であろう。ただ、足はかなり重くなってきていた。健太はこの先のことを考えると、落ち着かなくなってきた。
冷静になろうと、学んだマラソンの走り方を確認した。
まずは正しいランニングフォームに心がけること。顎を引いて、肩の力を抜いて、肘を後ろに引くような気持ち。着地は足裏全体で着地して、足や腰の負担をなるべくなくすこと。そう、呼吸の基本も忘れないように。呼吸は妹の前を走ったときのように。そうすれば大丈夫。
背後からパタパタと軽い足音が聞こえた。微かな汗臭さが漂ってきたかと思うと、体の横を風が走った。精鋭たちが次々と健太の脇をすり抜けていった。
先頭を争う彼らは、地域ではそれなりに名の知れた選手であろう。某会社のエースランナーとか、大学陸上部の長距離代表とか。彼らにとっては三周目であり、すでにマラソンの後半だ。陸上用のシャツの背中が旗のようにたなびいている。月並みな表現だが風に乗ったように走り去っていく。
打ちのめされた――。いくら能力の違いがあるといえど、これはあんまりだ。全身の力が抜き取られていくような無力感に襲われた。
追い打ちをかけるように、スタート当初より、同じペースで健太の周りを走っていたランナーたちも、時間を追うごとに前へ前へと離れていった。彼らの通常の速度は健太の練習時より遅いのだが、長い時間を走っても速度が落ちない。健太のほうが走る速度を維持できずに置いていかれている。
いっときは収まっていた不安がとめどもなく膨らんできた。完走できるのか……。
五年前のことを思い出す。マラソンの大会は同じ大鳥川の河川敷でおこなわれていた。そのときと変わっていることは、走っているのが健太だということだ。当時は父が走っていた。
父はマラソンが趣味で、走ることを日課としていた。会社の昼休みも走っていたようで、周囲の公園をジョギングして、その後で弁当を食べていたらしい。休みの日は自宅の周辺の複数のランニングコースをそのときの気分によって走り分けていた。健太の練習コースもそのなかのひとつだ。
小学六年の健太と小学四年の妹は半ば強制的に、父が参加するこの大鳥川市民マラソン大会の応援に駆り出された。
「父さんが走るのだから、家族が応援に来るもんだ」
小学生である兄妹は父の言葉に従った。母は寒空の下で長時間河川敷にいるのがいやだと応援には来なかった。
中学になると健太は何かと理由をつけて応援を断るようになって、妹も一人では……ということになった。父のマラソンの応援に行ったのは、後にも先にも五年前の一回きりだった。
あのときは大会会場までは、父が運転する車だった。今回は、健太と妹とで、自宅から四〇分かけて自転車で来た。
ほかに変わったことといえば、この前のときは、小学四年の妹は防寒用の毛のついた耳あてをしていた。それが今回は寒いからといって、耳がすっぽりかぶるヘッドフォンをつけていることだ。
周回コースの中間地点には給水所が設けられている。簡易テーブルが置かれていて、大会スタッフ用の緑色の野球帽を被った二人の係員が立っている。ランナーたちにスポーツ飲料の入った紙コップを渡している。
ランナーたちは、飲んだあとの紙コップを、コース脇に幾つも置かれたごみ箱に走りながら放り込んでいく。
健太も一周目のときは、周りのランナーと同じように走りながら、係員から紙コップを受け取った。順調に走ることができたときの話だ。
二周目のここにきて、膝に痛みが走り、太ももが上がらなくなってきていた。踏み出す一歩一歩の歩幅も狭くなっていた。
健太は給水所の前で立ち止まった。
喉の渇き以上に、この先歩き出しそうな弱い自分を、誰かに支えてほしかった。
係員は男性と女性の二人だった。
男性のほうは父と同じくらいの年恰好であった。紙コップをくれた。
「ゆっくりでもいいから自分のペースでがんばるんだ」
眼鏡の奥に光る目が優しそうだった。
「ありがとうございます」
健太は頭を下げて、両手で受け取った。
こうして給水所に立っている間も、疲れを知らないランナーたちは、テーブルに並べられた紙コップを自分たちの手でかっさらって走っていく。
女性の係員は片手で野球帽をおさえている。強い風に今にも吹き飛ばされそうだ。帽子から出た長い髪は旗のようにたなびいている。
「まだまだ大丈夫だよ。がんばれぇ。ファイトだよ」
目の前で見ると、ずいぶん若い。クリっとした丸い目をしている。
「大鳥高校だね。がんばれ」
彼女は小声でつけくわえた。
健太はいきなり自分の高校名をいわれて、呆気にとられた。どうして知っているのだろうか?
すると彼女はいたずらっぽい笑顔を見せた。
「わたしも大鳥高校の二年生だよ。きみの顔見たことある。隣のクラスだね。このマラソン大会で走っているの、高校生はきみ一人だよ。すごいね」
高校生で走っているのが健太一人だということは薄々感じていたが、この会場に同級生がいることには驚いた。
「そうなんだ……きみも同じ高校」
高校の制服を着ていないうえに、野球帽をかぶっているから気づくはずがない。きっと学校の廊下ではすれ違っているのだろう。
「わたし、マラソン大会の運営の手伝い来ているんだ。自分じゃあ、走れないけどね。みんなががんばっている姿を見るの、好きなんだ。フルマラソン走るなんて、ほんとすごいね」
彼女はもう一杯飲めと、紙コップを手渡してくれた。
いきなり健太の胸にこみあげるものがあった。自分のことをこの人たちも応援してくれる。それも、そのうちの一人は同級生。
うかつにも目から涙があふれそうになった。指先で前髪を額の前におろして涙目を隠した。
健太は二杯目を飲み干した。同級生の彼女にも礼をいって、いよいよ走り始めた。
寒風にうたれてきついだろうに、係員たちは嫌な顔ひとつせず応援してくれる。こんな弱い自分を励ましてくれることを申し訳なく感じた。
なんとか、なんとか足が動き続けてくれますようにと祈った。同級生に恥ずかしいところも見せられない。
二周目も終盤にさしかかった。同じ場所に妹がいて、一周目以上に声を張り上げて応援してくれた。
( 続く )
がんばれ。健太。マラソンは三週目へと。