骨と水煙草
その日は突然やってきた。
何の前触れもなく、人類は生まれ変わった。
子が産まれなくなり、寿命という概念が消え失せた。
そして肉が削げ落ちて、骨だけが残った。
何故そうなったのか、誰にも解らない。
◇◇◇
私の名前は鈴木。どこにでもいる骨だ。
肉の体の頃は、身長170cm、体重は80kgとふくよかな体形をしていた。
しかし骨になった後は日々のトレーニングの成果もあり、身長は160cm、体重は20kg程の、スマートな体になったと自負している。
骨になった日は、突然おとずれた。突然の出来事に焦ったものだが、慣れてしまえばどうということはない。皆も同じだったようで、今ではすっかり骨の生活を楽しんでいるようだ。
しかし骨になって良いことばかりではない。骨ゆえに表情を読み取ることができず、他の骨が何を考えているのかさっぱり分からない。声も出せないので、コミュニケーションは筆談が基本だ。
それに骨になってからは、様々な疑問があった。
どうやって思考しているのかとか、どうやって視覚が再現されているのかとか。
骨になっても受動的な感覚は変わらず持っているらしかった。それは視覚や聴覚、嗅覚といったものになる。味覚でさえ失われておらず、例えば手のひらでハンバーグの味だって感じることができる。
骨ばかりの私がどうやって思考し、モノを見て、音を聞いているのかは、偉い学者でも理解していない。解明できない世界の秘密といった所だろう。多くの学者がこの問題に挑戦し骨抜きにされた。
だが昔の哲学者が語っているに、
「我思う故に我あり」
「我々は考える葦である(※我々は骨だが)」
と有難いお言葉を残して下さっている。
だから肉がついていた頃のような思考や感覚を、骨で理解した理由は重要ではない。
私が思考していて、その触覚を実感しているという事実が存在しているからだ。
さて私には一つの趣味がある。タバコだ。
この趣味というものは、骨の私を考える上で重要な要素を内包している。
肉のある頃はよく吸っていて、鈴木にとって非常に重要な娯楽だった。これが無ければ生きる希望すら失っていたに違いなかった。
しかしそのせいか、体が崩れ落ちて骨だけになる際は、真っ黒に汚れた肺を見ることになってしまった。
それは気分の良いものではなかったが、それでもタバコはやめられなかった。骨になってもだ。
中毒になる器官は果たして存在しないが、しかし吸いたくなるのだから不思議である。
しかし肺がないので、タバコは吸いたくても吸えない。
(※タバコを吸ったことのない方のために説明すると、タバコは点火の際に吸引しなければ火がつかない。つまり、肺がなければ吸えない)
世の愛煙家も「吸いたい」という気持ちは同様だったようで、そしてタバコへの情熱は大変だったものらしい。
だから代替品を探すことに躍起になり、果たして良いものを見つけた。
昔から一部の愛好家に楽しまれた、マイナーなタバコ、水煙草だ。
水煙草は愛煙家に対して十分な潜在的能力を秘めていて、私もすっかりファンになってしまった。
私が持っている水煙草の器具は赤色のガラスで作られていて、美しい球体の本体は芸術的だ。球体には煙草の葉を置く皿と、煙を吸うための管が伸びている。
肺がない骨が煙草を吸うための工夫として、吸引用の管からは機械で煙が溢れ出るように設計されている。空気を吸えない骨でも楽しめる所が重要なので、圧力などの細かな仕組みは割愛しよう。
肉があった頃の古いものと違う点は、管から溢れる煙を調整するための、スイッチのような機構がついていることだけだ。
私が水煙草を準備する際は、バニラのフレーバーを用意する。皿に煙草の葉を置いたら準備完了だ。球体の液面が泡立ち始め、煙が出てくる。ガラスの球体を静かに揺れる液面を観察し、そして水煙草の管を口元に持ってくる。まだ管から煙を出してはならない。
この液面を見て、今からタバコを吸うのだと確認し、その行為を期待する重要な儀式なのだ。
管を咥えると、顔を構成する骨の隙間からは、煙が漏れ出す。豊かな香りは骨になっても感じられる。器具を使ってたっぷりと煙を取り込むと、煙は体の骨を伝っていく。元は肺だった場所に溜まることなく、肩甲骨、大腿骨へゆったりと煙が漏れ始める。
煙を生み出す球体からは、ブクブクと泡が弾けては煙へと溶けていく。その景色は幻想的で、肉の残る頃の鈴木を思い出させてくれるのだ。
こうして水煙草を吸うと、ふと考えることがある。
肉がある時の鈴木と、骨の私。果たして同一人物なのだろうかと疑問に思うのだ。
肉のある鈴木は、脳という器官が意識を発生させていた。しかし骨の私は、いったいどこから来ているのだろうか。煙草が嗜好品だったことは私が鈴木であったという証拠のように思えるし、何よりタバコは肉のある頃からの習慣である。
しかし、肉のある鈴木と、骨の私はまったくもって別人だとも言える。少なくとも生物学上は、骨の我々は正体不明の謎生物だ。
哲学的に考えれば、私が自身を鈴木だと思い込んでいる骨なのかもしれない。
それに私以外の骨だって、同様だろう。
ただ骨の私がいて、肉のある頃の鈴木のように振る舞っていることは重要なことであると思う。
私は水煙草を見る。変わらず水泡が立っては消えている。
肉のある鈴木が水泡だとしたら、骨の鈴木は煙のような関係だろう。
別物ではあるが、同一の発生源を持っている可能性にいきつく。
だから、私は自身を鈴木であると考えてみるのだが、それを証明する術は存在しないし、その必要もないだろうと解っている。
さて、骨には娯楽が少ないので、こうして物事の思索を楽しむ。
人生ならぬ骨生を楽しむための思考と工夫いう奴だ。
私は肉の体の頃のように、つい煙を大きく吸おうとするが、それを吸うことはできなかった。
しかし水煙草から漏れ出る煙と、白檀のような甘い香りを満喫した。
あぁ、何と楽しいことだろう。
ひとしきり満足した私は、水煙草を片づけた。
煙は消え失せ、球内の水面は皺一つない布のように凪いだ。
私はこの後に何をしようかと考えて、背伸びをする。
キシリと肩の骨が鳴った。
スマートな私らしい、小さく気持ちの良い音だった。
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