9. 乗っ取りの対価として
俺は俺の中に勝手に入り込んできた「ウィル」という人格について、何一つ知らない。自分は未来からやってきたんだなどという信用に値するのかどうかすら怪しい自己紹介の他には、彼を特徴付ける情報を俺は持っていない。が、恐らく初見であるに違いないあの数学の問題をすらすらと解いてしまうあたり、本来の俺よりも上等な知能を持ち合わせているのは間違いなさそうだった。
この時代の高校生は、こんな簡単な問題を解いているのかとウィルは俺に言わせた。未来の高校生というのは、もっと進んだことを勉強しているのだろうか。そして今更のように気が付くのだが、ウィルという人格の持ち主が、自分と同年代であるとは限らないのだ。彼の言葉は俺の声で語られるものだから、なんとなく同年代の男であることを想定してしまっていたが──そもそも論、男であるという確証すらない。いったいこのウィルという人格は、どんな身体から抜け出して俺に宿ったのだろうか……。
ウィルが俺の体を自分の席に座らせると、再び短い悪寒とともに体の自由が返ってくる。俺は目をぱちぱちと瞬かせてから、心の中のウィルに向かって感謝の心を念じた。
──君を巻き込んでしまったのはこちらの落ち度でもある。多少の罪滅ぼしとして、君の生活に助力させてもらっただけさ。
心の中のウィルはそういった。俺は急場を乗り越えたウィルへの感謝の心とは別に、別の邪な思いつきが萌芽しつつあることに気が付いた。どうやら、ウィルの人格は俺よりも頭が良いらしい。それならば、学校の課題などの面倒な仕事は、彼に人体を乗っ取らせてやってもらえばいいのではなかろうか?
──別に構わない。
そして心の中の人格は、あっさりとこの思い付きを肯定した。
雷に打たれ、正体不明の人格に体を乗っ取られという不幸極まった状況の中に、一縷の希望が見いだされた。俺の想像した通り、ウィルの人格は俺よりも数段階は賢いようだった。熱血指導の教員たちによって課される山のような宿題も、もう一つの人格に支配された俺は一瞬にして、事も無げに解決してしまうのだ。
そして、ウィルという人格の有能さは、知識だけにはとどまらないということに俺は気が付いた。それは学校からのいつもの帰り道、珍しく寄り道をして家電量販店に足を運んだのが切欠である。俺はゲームの新作を物色するために店内をうろうろとしていたのだが、その道中で唐突に、心の中から声がしたのだ。
──ああ、懐かしいなあ。
「ピアノ……?」
俺は自分の視線が、お試し演奏のために置かれた電子ピアノの方に向いていることに気が付いた。
──そう、ピアノだ。向こうではしょっちゅう引いていたんだが。
「お前、ピアノも弾けるのか?」
──ああ。といっても、人並みだけれど。
「……もしや……今の状況でも……」
俺は電子ピアノの前に置かれた椅子に腰かけて、目を閉じる。そして一瞬のうちに、ウィルに体の自由を委譲する。
「どれ、一つ御覧に入れようか」
俺は自信にあふれた様子でそういうと、鍵盤の上に両手を置いた。俺は生まれてこの方、ピアノなんて習ってこなかったし、引いた経験すら皆無だった。そもそも自分自身に音楽的素養があるとは全く思っていなかった。
しかし、驚くべきことに──俺の手は急に、目にもとまらぬ速さで鍵盤の上を動き始めた。そして俺の耳に、どこかで聞いたことのあるようなクラシック音楽が届く。ウィルが俺の体を使って、ピアノを演奏している。それも、素人目に見てもかなり上手な演奏であるように思われた。数分間の間、俺の体は音楽家の霊に取りつかれたかのように踊り狂って、演奏を続けた。やがて打鍵がピタリと止まり、演奏が終わる。ウィルが周囲を見渡すと、その熱演に惹かれてか、数人の客が俺の体をじっと見つめていた。
俺はその時、あることに気が付いた。どういう原理なのかは分からないし、恐らくは俺の理解できる範疇を超えているに違いないのだが──どうやらウィルに体を乗っ取られている時、藤明空の体が持つ能力にはウィルの持っていた能力が加算されているらしいのだ。ウィルが体の自由を行使している限り、藤明空は難解な数学の問題を数秒で解いてしまい、弾いたこともないもないピアノでも流暢に演奏できるという才能を付与されているのだ。これは俺にとって非常に都合がよく、非常に興味深い発見であった。
俺は店を出て、自転車を漕ぎながら考える。果たしてこのウィルという人格は、どれほどのことができるのだろうか。少なくとも俺自身よりも数段階賢く、音楽の才能もあるようだ。しかしそれだけではないかもしれない、いろいろ検証してみる必要がある……。うまくいけば、非常におもしろい結果を生むことができるかもしれない……。そんなことを考えていると、明日からの生活が急に面白みを増していくような気分になってきた。