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8. 二重人格の効能

 土曜と日曜、折角の休日だというのに、俺はベッドに寝転がったまま、天井をぼんやりと眺めることに終始して時間を潰した。あまりにも訳の分からないことばかりで、俺の脳は少々疲れていた。


 ウィルは帰りの電車で"励まし"の言葉を投げたっきり、一言も喋らなかった。しかしだからと言って、俺の気持ちが晴れるというものでもない。むしろ、自分が見ている世界を無言で品評されているような気分がして嫌だった。天井ばかり見つめていたのは、内なる人格に対するさりげない対抗心の表れだったのではないかと、俺は自分の行動を他人ごとにように顧みる。


 そうこうしているうちに日曜日が終わり、月曜日がやってくる。とてもではないが爽やかに学校に登校できる気分ではなかったけれど、仮病を使って休むというのも下策なような気がした。何しろ、桂博士は一月くらいの猶予をくれと言っていたのだ。一月もの間仮病を使っていたら流石に周囲に怪しまれるだろうし、第一本当に病気になってしまいそうだ。


 俺は普段通り制服に着替えて、少々フレームの歪んだ自転車に乗って学校へと向かった。


「やあ、おはよう」

 なんとなく気分がすぐれなく、机の上に突っ伏して始業の鐘が鳴るのを待っていると、背後から爽やかな声がした。高校における俺の数少ない話し相手である宮川誠也という男である。

「なんだ、元気がなさそうじゃないか。……まあ、普段から元気そうには見えないが」

「喧しいな。俺だって多少ナイーブになる時期くらいある」

 俺は金曜から日曜にかけて起こったことを赤裸々に語ってやろうかと一瞬考えた──が、すぐに止めた。未来人の人格に体の自由を奪われたんだ、なんて冷静に考えて気が触れたとしか受け取られないだろう。ただでさえ変人寄りの評価を受けている俺である。余計なことを言ってこれ以上評価を貶める必要はない……。


「ふうん。まあいいや。それより、一限目の宿題はやったかい? 問題が何を言っているのかさっぱりわからなかったのだが」


 ……なんだと? 俺の全身から血の気が引いていくような感覚を覚えた。すぐに学生鞄を開け放ち、配布物を雑多に突っ込んだクリアファイルを取り出す。そこには、数学の問題と真っ白な解答欄とで構成された宿題プリントが挟み込まれていた。

「……忘れていた」


 あれだけ奇妙な出来事に巻き込まれて、数学の宿題などという些末なことを留意しておけというのも酷な話であるとは思う。が、しかし、俺は今確かに、週末の宿題を失念した人間という状況に陥っていた。


「……全く手を付けていないじゃないか! 大丈夫か?」

「……」


 大丈夫ではないのは明らかだったが、今の俺には絶句して絶望感に浸る以外に方法はなかった。俺はしばらくの間、白色の紙を呆然と見つめていた。が、すぐに一限の始まりを告げるチャイムが鳴って、それとほぼ同時に数学の教師が教室に顔を出す。

「さて、お前ら課題はきっとりとこなしてきただろうな」

 強面の数学教師・嶋が生徒たちを睥睨しながらそんなことを言う。俺の体がびくりと震え、背中に冷や汗が流れる感覚を覚える。


 数学の課題は、生徒たちが自主的に回答を作成してきて、ランダムに指名された生徒が黒板の前で自作の解答を晒されるという儀式を経て完結する。課題というのも、どこかの大学の過去問なんかを小難しくしたような問題ばかりである。だから、課題をさぼった人間は、黒板の前でチョークを握りしめて醜態を晒すことになる。


 不幸な状況というのはさらなる不幸を呼び込みやすいものである。嶋先生は課題の最終問題──複雑な数式の入り混じったあからさまな難問──を指定して、俺に解くように指示した。俺は立ち上がって黒板の前に立って、改めて問題を見返した。……とてもではないが、その場で解答を作れるような難易度ではない……。


「なんだ、課題をやって来なかったのか」


 嶋が背中を突き刺すようにそう言った。俺はチョークを強く握って、何か書き始めようとしたけれども、頭の中には数字も記号も、何も浮かんでこない。どうしようもないのだ……。


 ──なんだ、お困りの様子だね。


 と、唐突に心の奥底から声がして、俺は驚いてチョークを取り落としそうになった。


 ──変わってあげようか?


 邪悪な囁き。しかしその時の俺は、冷静ではなかった。藁にもすがる思いで、俺は心の中の未来人の人格にすがろうと企んだのだ。

 全身がぶるっと震え、一瞬だけ視界が真っ白になる。そして気が付いた時には、俺の手は勝手に動き出していて、黒板の上につらつらと白い文字を書き始めていた──ウィルの仕業である。


 俺は自分の手によって描かれる、意味不明な記号と数式たちをぽかんと眺めていた。俺の手はよどみなく文字を書き続け、証明終わりという文字をもって解答を終了した。


「ほう……?」

 嶋は珍しいものを見るように目を大きく開いて、黒板の上の文字に目を滑らせた。

「……素晴らしいじゃないか。こいつはなかなか難しく作ったんだが、まさか自力で解いてくるとは。上出来じゃないか」

 滅多に人を褒めない嶋が、俺に称賛の声を掛けた。──問題を解いたのは実のところ、本来の藤明空ではなかったのだけれども。

「余裕ですね」

と俺の口は言った。

「この時代の高校生は、まだこんな初等数学しか学んでいないのですか?」

「なんだって?」

「……いや、なんでもないです。それでは」

 ウィルは俺の口に訳の分からないことを言わせてから、自分の席へと戻った。きょとんとした表情の嶋先生を黒板の前に置き去りにして。

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