6. 桂博士の仮説
ウィルが──正確には俺の体を乗っ取った人格が、東京に向かうまでに、俺は何もできなかった。俺は自分の体が勝手に財布からお札を出して、東京行の切符を買うのを止めることができなかったし、缶コーヒーを勝手に買うことを止めることもできなかった。俺は無力だった。待合室のガラス窓に朧げに移った自分の顔は、妙に誇らしげに見えたのだけれども、胸の奥の自分の感情とはまったくもって乖離していた。動揺と困惑。それが今、俺の心の中を支配している全てであった。
東京までは思ったよりも時間がかからなかった。桑の木大学は千葉県との県境近くの海沿いに立っていた。ネットで調べるまで一切の風評を知らなかったのだけれども、その校舎は想像よりも立派なものだった。大学の敷地内に足を踏み入れると、俺は周囲を注意深く見渡していた。休日ということもあってか、敷地内を歩いている人影はまばらだった。
やがて俺の体が、小さな林を抜けたところにある白亜の建物の前で足を止めた。
「……ここだな。当時からこんな感じだったんだな」
ウィルは何やら感慨深そうに、そう口を動かした。それから、建物の玄関に備えられたインターホンを、何の躊躇もなく押す。
「桂博士に会いに来ました。彼に連絡をしてください」
インターフォン越しに取り次いだ警備員に、俺の口はそう告げた。数分ほどすると、ガラス張りの玄関の奥から人影が一つ、俺が立っている方向に歩いてくるのが見えた。その人影は、ガラス越しに俺の顔をじろじろと眺めてから、自動ドアを開け放った。
「ウィル君かね」
その初老の男──桂博士はいぶかしげな表情でそういった。
「そうです。お久しぶりです、博士。……いいえ、過去の人格に対してお久しぶりというのは正しいのでしょうかね」
「そこはややこしい問題だな。ともかく、中に入りたまえ」
桂博士は指をさして、建物内へと俺の体を導いた。俺は妙な不安感に心の奥底でビビッていたのだけれども、博士の背を追う自分の足は妙に堂々とした歩きっぷりであった。
俺は桂博士の居室へと案内された。壁の両面に本の詰まった本棚が置かれ、あとは作業用と思われる簡素な机と来客用の丸テーブルという構成だった。俺の体は何お断りもなしに丸テーブルの前に腰かけ、長い旅の後のように深い溜息を吐いた。
「まずは、未来からはるばるご苦労だったね、ウィル。そして、君。聞こえているのだろう? 確か、藤明空君、といったかな。君もまた、奇妙な現象に巻き込まれたものだな」
いや、本当ですよ、って伝えろ。
「いや、本当ですよ、らしいです」
ウィルは体を操ってそう言った。
「なるほど、災難だったね。さて、早速だが、藤明君、そしてウィル。君の体に起こった奇妙な現象について調査をさせて欲しい。……まずは、これを身に着けたまえ、ウィル」
桂博士は、作業机の上に置かれた円形の機械を俺に手渡した。俺はそれが何の機械なのか、さっぱり見当もつかなかったのだけれども、俺の体は慣れた様子でその機会を頭部へと装着し、同じく手渡されたカラフルなコネクターを機械へと接続した。
桂博士はコネクターの端子をパソコンへと繋げて、スクリーンをしげしげと眺めた。スクリーンに何が映っているのか、現在の視点からは伺い知ることができなかったし、体を操っているウィルはスクリーンの内容に興味がないのか、覗き込もうという動作を取ることなく、椅子に座って身動き一つしなかった。
「ふむ……」
桂博士は深刻そうな表情を浮かべ、俺に向かって声をかける。
「ウィルが朝方言った通りだな。どうやら藤明空という単一の肉体の中に、二つの人格が共存しているらしい」
「やはり、そうなのですね」
俺の口はそういったが、俺には何がやはりなのかさっぱり分からない。
「なぜこんなことが起こったのでしょうか?」
ウィルが博士に問いかけるが、博士は苦笑しながら首を横に振る。
「詳しく調べてみないと分からない。しかし、一つ仮説を立てることは出来る」
「……それは?」
「ウィル、君は、私の研究室にある『空の人形』を目標にして精神移行を行ったのだね」
「ええ。それが標準的な精神転移ですから」
「推測するに、この少年、藤明君が、その『人形』とあまりに酷似した性質を持っていたがために、そちらの転送装置が誤認識を起こした、ということは考えられないかね?」
「馬鹿な……」
ウィルが俺の声を荒げさせる。
「では何ですか? この彼が、人形と同程度に空っぽだったと?」
「可能性はある。少なくとも、現在測定中の脳波スキャナーはその可能性を示唆している」
「そんな……そんな人間が存在するなんて……」
「ありえない話ではないのだよ。まあ、当の藤明君にとっては少々ショックかもしれないが」
──では何ですか? 俺の性質が人形と似ていたために、未来からやってきた人格が間違って俺の体の中に入り込んでしまったと、と質問してくれないか。
「では何ですか? 俺の性質が人形と似ていたために、未来からやってきた人格が間違って俺の体の中に入り込んでしまったと、だそうです」
「現状の現象を最も適切に記述できるのが、その仮説だ」
桂博士は済ました表情を保ったまま、そう告げた。