5. 朝の挨拶と疾走
翌日は休日だった。目を覚ました時、時計の針は九時を指していた。顔を上げて付けたままのPCの画面を見ると、メールが一通帰ってきていた。俺は吃驚して、食らいつくようにマウスを掴むとメールの中身を読む。それは俺が送ったものよりもさらに簡潔な文面だった。
至急連絡されたし。0×0-〇〇△△-□□××……。桂
俺はすぐさまベッドの上の携帯を引っ掴んで、ダイヤルを打った。長いコール音の後に、男の声がした。
「……ウィル君かね?」
「……いいえ、違います。あのー、僕は藤明というものなんですが……」
「なんだお前は」
「えーと、どう説明すればいいのか……。しかし、ウィルという人は、知っています」
「どういうことだ?」
「なんというか、ウィルという人が僕の中にいます。なんでも、未来からやってきた人格だとかで……」
我ながら、何を支離滅裂なことを言っているのだろうと思った。
「ウィルの人格が君の中に? どういうことだ。……藤明君とか言ったか? 君は今、ウィルの人格に変わることができるのかね?」
「どうでしょう、ちょっと聞いてみます。……えーと、ウィル? 話を変わることができるかい?」
俺は胸の中の人格に語り掛けるように、そう呟いた。
──二度寝しろ。そのタイミングで入れ替わる──。
「あー、桂博士? 今から二度寝するのでちょっと待ってください」
「なんだって?」
「どうやら、人格を入れ替えるためにもう一度寝る必要があるらしいのです。少々お待ちください」
「……分かった。では可及的速やかに寝てくれたまえ」
俺は通話を継続させたままベッドの上に横たわり、眠れ眠れと念じながら目を閉じた。眠れ眠れれ眠れ……。そして寝た。
俺の体は急に立ち上がって、机の上の携帯を引っ掴んだ。
「もしもし、桂博士ですか。私です、ウィルです。今変わりました」
「おお、ウィル。久しぶりだ。……何やら面倒なことになっているんじゃないか?」
「そうなのです。異常な事態です。博士の研究所に飛んでいくべき精神が、どういうわけか縁もゆかりもない一般人の肉体に宿ってしまったのです」
「奇妙な事態だな」
携帯越しに桂博士の重々しい声が聞こえてくる。
「とにかく、状況を確認したい。君、東京まですぐに来れるかね」
「ええ、構いません。何しろ事態は一刻を争います」
ちょっと待て。俺の肉体を間借りして、東京へと向かう気か?
「その通りだ。人類の未来のためだ。我慢したまえ」
俺の体は夏休みを渇望する学生のように飛び跳ねて、玄関へと駆けて行った。そのあまりの勢いに驚いたか、リビングに座っていた母親が声をかけてきた。
「何、そんなに急いでどこに行くの、空」
「あー、藤明空君? のお母さんですね。初めまして」
「……はあ?」
「ちょっとのっぴきならない事情で、これから東京に向かわなくてはならないのです」
「え、何、東京?」
「ええ。それではさようなら」
「ちょ、ちょっと。今から? ねえ!」
俺は軽く会釈をして、玄関の扉を開け放った。──無論、俺の意志ではない。俺の中のウィルが体を操っている。俺はきょとんとしている母に何か声をかけてやりたかったけれども、生憎体の自由が利かないのだ。手元の携帯で駅の方角を調べ始めた俺は、何かを納得したように小さく頷くと、駅の方向まで全力疾走を始めた。俺はこれからどうなるんだ? 凄まじい不安感が、心の中に充満していくが、俺は何一つとして為す術がなかった。