10. 矛盾を含んだ感覚
それからの数日間は、全くと言っていいほどに退屈はしなかった。
ウィルの人格は、俺が想像していたよりも多才で、高性能だった。勉強に関して言えば、教科を問わずなんでもすぐに理解してしまうようで、現役で高校生をやっているはずの俺よりも数段有能のように思われた。また、ピアノに限らず様々な楽器も容易に弾きこなし、絵も一流の画家が描いたものとなんら遜色ない仕上がりである。俺は自分の手によって行われる様々な天才的な活動を、まるで画面の向こうから芸術家を眺めている人間のような心持で眺めていた。少なくとも、自分の体が生み出したものという実感は一向に湧いてこなかった。
ウィルの天才性は、体育の時間にもいかんなく発揮された。体力測定のために催された短距離走では、エンジンが入れ替わったかのように強烈に足が速くなり、ただ毎日家を往復するだけの自分が、毎日部活で切磋琢磨している連中と殆ど同じようなタイムを叩き出す──よくよく考えてみると、不思議な現象である。体を動かしているのはウィルであるとはいえ、使っている体の性能はしょせん俺自身のものである。人格が変わったからといって身体機能が向上するとは思えないのだが。しかし、腑に落ちない点を真面目に考察する気にはあまりなれなかった。それよりも、他力とはいえ、人よりも明確に上の成績を叩き出せたという事実に普段では味わい難い陶酔感を覚えていたからだ。
「君、そんなに足が速かったか?」
宮川は額に汗をかきながら、ウィルが操作する俺の体に話しかける。
「……成り行きでな」
「成り行き? なんだ、今更運動でも始めたのか?」
「それは……ええと……」
宮川がずいっと顔を突き出して詰問し、ウィルはその返答に困っているようだった。俺は意識を集中して、ウィルと人格を入れ替える。
「……いいや。しかし、体を動かさないというのも健康に悪かろうから、最近体を鍛えているんだ」
俺は事実無根のことと言った。
「へえ……」
宮川はなんとなく納得していないような表情を作ったけれど、それ以上は何も聞いてこなかった。
俺の豹変は、宮川以外の人間もなんとなく感じていたらしく、しばらくの間事あるごとにクラスメイトの視線を背後に感じるようになった。とはいえ、急に俺のファンができるとか、女の子の追っかけができるとか、そういう都合のいい出来事は起こらなかったのだけれども。
桂博士は、なかなか連絡を寄こしてこなかった。
俺は彼と別れてから、一度だけ彼に電話を掛けた。けれど、彼は電話に出ることなく、留守番電話サービスの無機質な音声案内がむなしく響くばかりだった。
──多分だけど、桂博士は今集中状態にあるのかもしれない。あの人、本気で仕事をしている時には全ての外界との接触を断つからね。まあ便りがないのはよい便りともいうじゃないか。彼を信じて待っているべきだ。博士はすぐに素晴らしい解決方法を思いついてくれる。
ウィルの人格は俺にそう言った。恐らくは励ましの言葉であるに違いなく、その配慮は大変にありがたかったのだが──俺の心の中には少し別の感情もあった。
この数日で、ウィルの人格というのがどれほど有能であるかを俺は理解した。彼の得手不得手を完全に掌握したわけではなかったけれど、少なくとも俺よりも数段できる人間だ。面倒な事、大変な事、重要な事、それらをウィルに押し付けることができれば、随分と人生楽ができるような気がする。事実、この数日間の俺は、傍から見たら天才的であったに違いないのだ。俺自身は何の努力をすることなく、天才の名を欲しい侭にすることができる。
そう考えると、俺は一刻も早く日常を取り戻したいという感情の他に、この人格が永遠に俺の中に留まっていてくれればいいのにという思いが湧き出てくる。気が付けば俺は段々と、このまま影響に桂博士から連絡が来なかったらいいのにと思うようにさえなっていた。




