01:英雄ユキコ(起
ラヂオからは若い子に流行っているという楽曲が流れて来ている。
つい半年前なら敵性音楽と非難されていた隣国の音楽だ。
わたしはそれを聞くともなく耳にしながら、冷奴をつまみに生ビールをちびちびとやっていた。
食事のあとだった。
台所では2人の娘、次女のナギサと三女のホノカが楽し気にお喋りをしながら食器を洗う物音がしている。
ラジオの前に陣取っているのは6歳になる孫のアカリ。
もう1人、4歳になるリクは日中に遊んで疲れていたのか、夕飯を食べ終えるなりコテリと横になってしまっていた。
ちりんちりん、と7月の風に風鈴が鳴る。
隣家の談笑が風に乗って届く。
あまりの安楽さに「ほぅ」などと息がこぼれてしまった。
わたしはこの10年間、家に帰る暇もないほどに働きづめだったのだ。
それがつい先ごろ、職場が落ち着いたのとわたしが50歳を迎えたのとで、いい機会だと引退したのである。
もっとも、本来はもう少し仕事をするつもりだった。
具体的に言うと末の娘のホノカが他所様に嫁ぐまで、あと2年から5年は頑張るつもりだった。
しかし折からの無体がたたったのか、わたしは体を壊して倒れてしまったのだ。
そんなときだ。
病室に見舞いに来た、長女のイズミと次女のナギサが言ってくれたのだ。
「お父さん、頑張ったんだから。もうゆっくりしなさいな」
「ホノカのことなら大丈夫だから」
わたしはその言葉にほだされることにした。
わたし自身、もう無理がきかないとわかっていた。
職場にいたところで穀つぶしにしかならないだろう。
それではお国に申し訳ない。
ならば。
俗に人生60年ともいう。
キッパリと辞めて、あとの10年は好き勝手に生きようと思ってのことだった。
「お父さん、お酒の御代わりはいる?」
そう訊いてきたのは洗い物を終えたナギサだった。
ナギサは23歳だったか。
3姉妹のなかでは唯一わたしに似た顔をしている。
凛とした顔つきとでも言おうか。
性格も顔立ちのままで、負けず嫌い。
幼い頃は、男の子に混ざって剣術道場に通ってもいた。
もっとも。
16歳で婿をとって、今や2児の母。
割烹着を着た様子はずいぶんと柔らかくなったように見える。
「御代わりは要らんよ」
わたしは答えながら、アカリの横に座ったホノカを眺めていた。
「アーちゃん、なに聴いとんの?」
「ん~とね、…らぢお」
「そういう意味じゃないんだけどな~」
と。わたしの視線に気づいたホノカが「なに?」と小首を傾げる。
「いいや、ホノカは母さんに似てるなと思っただけさ」
「そう?」
とナギサに視線を向ける。
「ホノちゃんはあたしたちのなかで1番に母さんに似てるんじゃないかな?」
「そうなんだ」
とホノカはあまり興味がなさそうだ。
それも仕方ないだろう。
ホノカは母親の顔を知らない。
13歳。
この子をここまで育てたのは、母代わりとなってくれた長女のイズミだ。
仕事に追われていたわたしとしてもホノカは赤ン坊の時分しか記憶にない。
それはホノカも同じなのだろう。
一緒に暮らすようになったものの、わたしに対しての薄い隔意を感じていた。
「ただいま」
ガラガラと玄関の引き戸を開ける物音がして、帰宅を告げる声がした。
「おかえりなさい!」
ナギサとアカリが揃って迎えに出る。
我が家の大黒柱のお帰りだ。
「お義父さん、ただいま帰りました」
ぽってりと肥えたタカユキくんが、脚にアカリをひっつけながら、ナギサに背広を脱がせてもらいながら、挨拶をしてくる。
「おぅ、お帰り。すまないけど、お先にやらせてもらってるよ」
わたしはチラリと壁に掛けられた時計を見た。
6時20分。
「当局はあいかわらず忙しいみたいだね」
「半年前と比べたらぜんぜんですよ」
「戦時体勢だったからね」
互いに当時のことを思い出して苦笑してしまう。
「それでもこうして一時的に停戦して、ようやく家に帰れるようになりましたし。今は人事の刷新でゴタゴタバタバタしてますけど、これが終わったらだいぶんに楽なるはずですよ」
「そうか…いろいろ変わるんだろうなぁ」
しみじみと思いを馳せてしまう。
これまでと。
これから。
楽しみのようでもあり、置いていかれたような寂しい気持ちもある。
「よっこいしょ」
ステテコに白シャツという下着姿になったタカユキくんが卓袱台ごしにわたしの前に座った
胡坐をかいた膝のうえにはアカリがニコニコと潜り込んでいる。
しばらくタカユキくんと他愛のない雑談をしていると
「今日もお疲れさまでした」
ナギサがお盆に夕餉と瓶ビールを乗せてやってきた。
もう少しタカユキくんの帰宅が早くなれば家族全員で食卓を囲むこともできるのだが。
まぁ、それもタカユキくんの言い分通りならそう遠いことではないだろう。
「どうぞ」
とタカユキくんの手にしたグラスにナギサがトクトクとビールを注ぐ。
それをクイとひと息であおって飲み干してから
「そういえばお義父さん、ついに明日ですよね」
「ああ」
わたしは大きくうなずいた。
旅、に出るのだ。
英雄たちの足跡をたどる旅に。
英雄…。
この大陸は連綿とつづく歴史のなかで、常に、普通の人では成しえない功績を残す彼等彼女等を輩出してきた。
天歴1355年
大軍を指揮して常勝無敗をほこった、軍師エテ。
彼が亡くなったのは天歴1390年
すると
天歴1391年
市井の人々のために教育施設を立ちあげた、教師アリマ。
彼女が亡くなったのは天歴1426年
すると
天歴1426年
治癒の魔術をもって傷病者を分け隔てなく癒した、慈母イリャーリャ。
こういった具合に、常に、途切れることなく、英雄が現れた。
もう1度言おう。
この大陸は常に英雄を輩出した。
彼の英雄が亡くなれば、翌年には新しい英雄が。
新しい英雄が姿を消せば、直にまた英雄が。
だからだろう。
英雄の大陸。
祝福されし大陸。
ほかの大陸からはそのように呼ばれることすらある。
そのようなわけだから、この大陸に産まれ育った人は幼い頃から様々な英雄たちのエピソードを聞かされて育ち、同時に英雄に憧れるのだ。
もちろん、わたしも。
自分に英雄たる器がないと知ってからも、いいや、知ったればこそ、彼等彼女等を深く知りたいと思った。
何時か。
英雄たちに所縁のある土地土地を巡りたいと思いつつけてきたのだ。
しかしながら学生の頃は学業に追われ。
就職してからは時間が取れなかった。
…違うな。
本来が腰重なわたしは、忙しいことを言い訳にしていたのだ。
だが今は隠居の身。
忙しいなどということはない。
今、だった。
今しかなかった。
わたしの老い先もそうだが、世の中は刻々と変わっている。
あと十数年もしたら、今はまだ往時の面影のある英雄所縁の土地も、すっかり様変わりしてしまうことだろう。
だからこそ、今だった。
「最初の1歩ね。まずは何処に行くの?」
「チリンの町だよ」
そう答えれば、ナギサもタカユキくんも、それとなく耳を傾けていたのだろうホノカも、ついでと言ってはなんだけどもアカリも訝し気にしている。
わたしは苦笑してしまった。
祝福されし時期の英雄の名前や偉業を知ってはいても、英雄個々人の詳しいことを知っている人は少ない。
「英雄ユキコを知ってるかい?」
ホノカに尋ねれば
「天下無双の女剣士でしょ?」
「そう、よく知ってたね」
「先生が今の女性はユキコを見習って家庭から男社会に挑戦しなさい、てよく言うから」
女だてらに剣士として活躍したユキコは、特定の女性からは男社会に挑戦して成功した女性としても英雄視されているのだ。
きっとその先生は職業婦人でモガ(=モダンガール)なのだろう。
タカユキくんは苦笑して、昔気質なナギサが何か言いたげにしていたけど、わたしは目顔で制した。
「そのユキコが生まれたのがチリンの町なんだよ」
そこで何があったか。
わたしはみんなに向けて話を聞かせたのだ。
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峻厳なオオダテ連峰のふもとにある小さな村。
ユキコはそんなチリンの村に生を受けた。
ユキコの生まれた当時は、俗にいう100年戦争の末期。
しかしながら大陸は今だ小国・豪族が争って、人々はいまだ統一の切っ掛けすら見えてなかった。
歴史上に初めてユキコの名が記されたのは天歴1385年。
彼女が16歳の時だ。
村に食い詰めの盗賊が押し寄せたのである。
盗賊の数は10前後。
対して村に成人した男衆はいなかった。
折あしくも州に徴集されてしまっていたのである。
女子供ばかりの小さな村だ。
普通に考えれば蹂躙されてしまう。
だが。
ここにユキコが立ちふさがった。
たった16歳の少女は、単身でもって、10人からなる盗賊どもを打ち倒したのである。
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あたしはガタガタと震えていた。
部屋の隅でちいさくなって震えていた。
「大丈夫だから、大丈夫だからね」
自分に言い聞かせるみたいに。
胸のなかに抱いた男の子にささやく。
家の外からは悲鳴と怒声が聞こえてくる。
突然だった。
山の裾から大勢の、100人以上の兵士が襲い掛かって来たのだ。
「逃げろ!」
真っ先にそう叫んだ木こりのお爺さんは
「あれは敵州の兵士だ!」
そう言ったのと同時にお腹に矢が刺さって倒れた。
それからは大騒ぎだった。
あたしたちは逃げ回った。
守ってくれる男の人は領主さまに呼び出されて1人もいない。
残された老爺たちが鍬や鎌を手に手に向かって行ったけど、どうなったかは聞こえる悲鳴や怒号で明らかだ。
「ユキコねえちゃん」
きゅっ、と胸に抱えた男の子があたしを呼ぶ。
8歳の彼は、あたしの義理の弟。
あたしが三月前に結婚したことで、家族になったのだ。
都から来た旦那様は村に相応しくなく垢ぬけていた。
女衆は誰しもが色めき立ったものだ。
男衆は都落ちしてきたウラナリだなんて馬鹿にしていたけども、そんなものは嫉みでしかない。
だから、そんな人があたしみたいな骨川筋衛門を選んでくれたときは天にも昇る心持ちだった。
「大丈夫だから、きっと旦那様が助けに来てくれるから」
言いながら、それは無理だろうと分かっていた。
そんな都合よく事が進まないというのは16になれば嫌でも分かる。
それにしても、と疑問に思う。
こんな時だというのに。
いいや、こんな時だからこそかもしれない。
気を紛らわすように、疑問に思うのだ。
いったい、あの兵士たちはどうやって山越えをしたのだろう。
と。
あのお山を越えようと思えば、道先案内人が2人いる。
1人は、山向こうに詳しい人間。つまり敵州の人間。
これは問題なく都合できるだろう。
でも
あと1人。
こちら側の山に詳しい案内人もいるのだ。
「!」
裏切者?
しかも、この村に兵士たちが降りてきたということは、この村までの道筋しか知らない、この村の人間?
そう考えていた時だ。
バン! と部屋のドアが荒々しく蹴破られた。
「へ、へ、へ、み~つけた」
赤く濡れた剣を手にした兵士が部屋に入ってきた。
「女だぜ、女」
「上玉じゃねーか」
ニヤニヤと笑みを貼り付けた兵士がノソリノソリと近づく。
「来ないで!」
あたしは持っていた鉈を男たちに向けた。
「おいおい、そんな物騒なもん捨てろって」
「なんもしやしねーから」
言いながら男たちがジリジリと近づく。
ガタガタとあたしは震えていた。
膝が。
腕が。
鉈が目に見えて震えている。
男たちが迫る。
男たちが笑う。
その時だった。
『;:bf;ka:bba;khabajgahaka;ae』
不思議な声が頭の中に聞こえた。
何を言っているのかは分からない。
分からなかったけど。
あたしはその神の声に
「助けてください!」
訴えた。
『fdjkaj@jnana』
そう頭の中に声が響いた時だ。
あたしの体に不可思議なチカラが湧いた。
衝動。
あたしはただ思うがままに体を動かした。
鉈が男の首筋に吸い込まれて、パックリと開いた傷口から血が吹き上がる。
でも、その血しぶきをあたしが浴びることはなかった。
何故なら。
あたしはもう既に次の標的に向かって動いて、その時にはもう2人目を仕留めていたから。
あたしはその日。
100人からなる兵士を1人残さず全て殺し尽くした。
村の生き残りは…。
あたしと男の子の他に誰も居なかった。
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汽車に揺られて、わたしはチリンの町におりた。
200年前には村だった場所は、今や町へと広がっている。
『ようこそ 英雄ユキコ生誕の町へ』
色褪せた横断幕が出迎えてくれる。
英雄に所縁のある土地がどこもそうであるようにチリンの町は観光地でもあるのだろう。
もっとも、大戦のあおりなのかで観光客は…ざっと見渡したところいない。
そもそも駅に下りたのもわたし1人だったぐらいなのだ。
「さて…」
ここには慰霊碑があったはず。
言い伝えによれば、ユキコは盗賊とはいえ人を殺めたことに心を痛め、鎮魂のために慰霊碑をしつらえたのだとか。
わたしは錆びの浮いた案内板の前に立った。
目的地までは、しばらく歩かないといけないみたいだ。
「おぅーい」
と声がかけられた。
古ぼけた軽トラックに乗った初老の男だった。
「あんた、観光客かい?」
「そうだが?」
応えながら、軽トラックに歩を進める。
「そうか、そうか」
男はニコニコと笑っている。
「ユキコの慰霊碑まで行くんだろ? よかったら送っていくが?」
「それは助かる。しかし随分と親切なことだな」
「わざわざこんな田舎町まで来てくれた観光客だ、そりゃ親切にもなろうさ」
わたしはありがたく男の軽トラックに相乗りさせてもらった。
道中で男の言うところによると、チリンは町興しでユキコの名前を持ち出したものの、そもそも慰霊碑は観光スポットにするにはなんとも
「いじましい」
慰霊碑を前の前にして、わたしは思わず呟いてしまった。
ただの石だった。
女子供が頑張って持ち上げられるぐらいの大きさの石だ。
「な、言ったとおりだろ? 慰霊碑なんて仰々しいことをのたまっちゃあいるが、実物を見ちまえばガッカリな代物なのさ」
「しかし200年前の代物が残っているのは素晴らしいことに違いない」
わたしは持参したキャメラでパシャリパシャリと撮影した。
「あんたも、それが盗賊を慰めるためのモンだと思ってる口かい?」
写真を撮り終えたところで、男がそんなことを言った。
「その口ぶりからすると、違う説が?」
ニヤリと男が笑う。
これだから実地へ赴くのは面白いのだ。
その土地の人しか知らないような話が聴ける。
「これは曽婆さんに聞いた話なんだがね」
前置きをして男は言った。
この慰霊碑は襲われて亡くなった村人たちの墓石なのだ、と。
「それはおかしい。村人はユキコが守って1人も死ななかったんじゃなかったのか?」
「いやいや、それこそおかしいだろ? 10人からの襲撃を受けて、犠牲者を出さないなんて」
なるほど、指摘されてみればその通りだ。
わたしはユキコが英雄というだけで、盲目的になっていたらしい。
「しかもだな、襲ってきたのは盗賊ではなしに当時敵対していた州の兵士だったらしい」
あ!
わたしは思わず声を漏らしていた。
「猛将クマダの山越えか」
「あんた、物知りだな」
男が驚いたように言う。
かつてクマダという猛将がいた。
彼は山を越えて敵対していた隣州へ侵攻することを進言。
自ら先遣隊を率いて実行に移したものの、兵士とともに行方不明となってしまう。
それが、天歴1385年。
ユキコが盗賊を退けたとされる時期と重なるのだ。
「クマダは遭難したんじゃなく…英雄に討ち取られていた?」
だが。
だが、待てよ。
クマダが率いていたのは農民兵ではなしに、訓練を受けたれっきとしたサムライどもだったはず。
食い詰めの盗賊とは格が違う。
しかも、だ。
人数だって、敵州を攻めるのだから10人などという少数ではなかったはずだ。
それを、たった1人で殲滅したと?
わたしの独り言が聞こえたのだろう、男は
「眉つば眉つば」
悪戯が成功した悪ガキめいた笑みを浮かべていたのだった。