「最後の騎士」マクシミリアン1世
「最後の騎士」マクシミリアン1世
《 充実した、楽しい、意気盛んな人生。
戦いにつぐ戦い。辛苦。雄大な計画。
胸はずむような期待。幾度かの幻滅。
しかし赫々たる勝利の連続。》
マクシミリアン1世が生まれたとき父帝フリードリヒ3世の占星術師は、生まれた皇子の運命をこう占ったという。
はたしてその通りになり、生まれた皇子はやがて旅と戦いを繰り返して、それまでの誰もが考えたことのない野望を幾つも抱えて、そして時には破滅も経験した。しかし最後には勝利し、「ハプスブルク」の名を世界へ飛翔させたのである。
ハプスブルクの騎士帝・マクシミリアン1世の時代である。ハプスブルク家の躍進は彼なくして語れない。
父帝フリードリヒ3世から「大いなる事績を完成すべく神によって選ばれた“奇跡の子供”」と幼少から教え込まれたマクシミリアンは、やがてその思想を引き継いでオーストリア・ハプスブルク家は神に選ばれた一族と考えるようになった。
マクシミリアン(そしてハプスブルク一族)の転機が訪れたのは、18歳の冬のことだった。ブルゴーニュ公国のシャルル突進公が戦死し、ひとり娘マリーが残されたのである。父シャルル突進公が生前に娘の婚約者として候補にあげていたのがマクシミリアンであり、マリーは国境の町がフランスに占領されていく窮状をマクシミリアンに訴えて婚約の履行を求めた。マクシミリアンはこれに応えて旅をすることをに決めた。道中の町々でマクシミリアンは歓迎され、ある者は資金を、ある者は同行を申し出た。皇帝の息子が東からやってきて、西の国境を敵から守るために、姫を救うことを多くの者が期待していた。華々しい騎士道物語である。マクシミリアンは半年を経て旅し、公女マリーと結婚してフランス王の軍勢を退けたのである。
一方で、旧いオーストリアの時代はもはや終わろうとしていた。マクシミリアンがブルゴーニュ公女マリーと婚姻したことにより、ハプスブルク家は低地地方の領有権を得る。帝国の最東方から、西端という離れた地を統治することになったのだ。
マクシミリアンは自らを指して「オーストリア=ブルグント家」を自認し、舅のシャルル突進公の思想を引き継いで古のブルグント王国を再建して、「オーストリア=ブルグント王国」を思索したがこれは実現はしなかった。
また、ブルグント(ブルゴーニュ)という土地を手に入れたことにより、マクシミリアンはフランス語を獲得した。以降、マクシミリアンの息子フィリップ、孫カールに至る子孫はフランス語を母語とした。もはやハプスブルク家がオーストリアのみに留まる時代は終わり、ここにヨーロッパ的な王家へと変貌を遂げた瞬間だったのである。
まだ皇帝位に就く前の1489年、帝国の南方で継承問題が起きた。一族のチロル領主ジギスムント(前述のフリードリヒ4世の子)が、バイエルン公からの借金を幾度も踏み倒し、あわや戦争となりかけた。マクシミリアンはジギスムントに嫡男がいないことを踏まえ、自らがその継承者となって、借金ごとチロルを継承したのである。マクシミリアンは相続後にブルゴーニュで培った知識を用いて経済改革に着手し、汚職を一掃して返済したのだった。そしてまたこの時、ハプスブルク家領は再統一された。
マクシミリアンの指向は西にも東にも、果てなく四方八方に拡がり続けた。最初の妻マリーが亡くなると、次の婚姻によりブルターニュ公となろうとしている。それは果たされず、2度目の結婚相手となったのはミラノ公女であった(これにより孫カールはミラノ公を請求)。ほか、ウィーンを攻め落としたハンガリー王との戦いではハンガリーの湿地帯にまで遠征し、イタリアを巡るフランスとの戦いでは繰り返し北イタリアに出陣した。また先々代の当主アルブレヒト2世の権利を主張してハンガリーとボヘミアの王位も請求し、ひいては東欧世界に介入してポーランドを牽制するため、選挙王制だったスウェーデンの王位すら狙った。
更には「ハプスブルク家はキリスト教世界の庇護者であるから」とローマ教皇を兼ねる意図すら示した。
あまりに遠大すぎる政治構想はマクシミリアン自身すらも把握できず、父のフリードリヒ3世は「じっと一箇所に留まることのない」息子の事業を《自堕落な取り引き》だと批判している。また同時代の政治家マキャヴェリも「彼は朝決めたことを夕覆している」と批判を寄せている。だがマクシミリアンは精気に溢れ、老境に至るまで果てない自身の夢のためにヨーロッパ中を駆け回って旅をした。しかし夢想家ではなかった。「彼は人並み外れた政治能力を思うままに駆使し、傑出した交渉才能に恵まれ、役立てて多くの難局を切り抜けた……これに並んで彼は政治宣伝〈プロパガンダ〉の重要性を直感的に理解していた。この2つの能力に優れたマクシミリアンは交渉相手や宣伝対象者の心を読むのに長け、〈相手の気持ちと同じになって話しかけることができた〉」という特技を持っており、夢を夢のまま終わらせることなく行動した。それは無為に終わることなく、嫡孫カールとフェルディナント兄弟によって結実し、ハプスブルク世界帝国を生み出すことになるのだった。
私は生きている しかし いつまで生きるのかを知らぬ
私は死ぬ しかし いつ死ぬのかを知らぬ
私の旅は続く しかし どこへ行くべきかを知らぬ
不思議なことに 私は幸福だ
マクシミリアン1世は旅の傍らで、当時の科学や技術にも大いに関心を寄せて積極的に導入を図った。大砲の改良、版画技術、天文学……数多にのぼる。
特に版画技術に対しマクシミリアンは、「君主の肖像を印刷すれば威光を広く知らしめることができる」と評価し、多くの肖像と、自身を題材にした作品をお抱えの画家デューラーに刷らせた。「皇帝マクシミリアン1世の戦車」「皇帝マクシミリアン1世の凱旋門」などがそうである。
マクシミリアンはこのような言葉も残している。
「ある人間が自分の仕事を受け継ぐことなくして死に、そして自分の生きている間に自らの記念物を作ろうとしない場合には、何の記念物を持たないことになり、葬儀の鐘の音とともに忘れ去られてしまう。それ故に私がこのようにして、自分の記念物を作るために投ずる金は決して無駄ではないのである」
この理念のもと、マクシミリアンは出版職人を保護して多くの肖像画を刷らせたのである。結果としてこれはマクシミリアンの名声を高めたのだから、慧眼だったといえよう。
また多くの学者を集め、ハプスブルク一族の先祖を研究させて、多くの聖人との繋がりを見出そうとした。後にこれは「ハプスブルク家の聖人暦」を生み出した。数多の偉人、聖人との関係性を主張し、一門の権威を高めようとしたのだった。プロパガンダに余念がない皇帝である。
帝国体制においては、諸侯の利権があり中央集権は進まなかったが、多くの事績を残している。私闘を禁じ、法に則った解決を求めた永久ラント平和令発布と、帝国最高法院の設置があげられる。また、帝国に郵便制度という革命を導入したのもマクシミリアンだった。広くなった領土を統治するため、家領の郵便網を帝国全体に拡大したのだった。
1506年、ローマへの皇帝戴冠に向かったマクシミリアンは、途上ヴェネツィアの妨害によって至ることができなかった。そこで、教皇の認可によって途上の都市トリエントで「皇帝宣言」を行ったのである。これは従来の「戴冠によってのみ皇帝になる」という中世以来の通例を覆して、これ以降は宣言するだけで皇帝となれるようになった。ハプスブルク家による皇帝位世襲が確実となったのもこれが大きいだろう。
そして、悪名高い傭兵ランツクネヒトを創設したのもマクシミリアンだった。スイス傭兵にならって、その手法を取り入れたドイツ人傭兵隊を作ったのだった。もはや重武装の騎士が活躍する中世期は終わりを迎え、戦場は傭兵に支配されようとしていた。マクシミリアンは紛れもなく近世の凱歌を告げる人物の一人といえよう。故に後世に畏敬を持ってこう呼ばれた。
「中世最後の騎士帝」と。
数多の事績を残したマクシミリアンは、1519年の冬、旅の途上で病を悪化させて崩御した。その死の間際に至るまで肖像を描かせ、死後に出版された肖像画には「史上最大のマクシミリアン帝」と讃えられている。
[コラム]再統合者としてのマクシミリアン1世
皇帝マクシミリアン1世はハプスブルク家系の保有していた諸請求権の再統合者でもあった。
父帝フリードリヒ3世からはローマ王位(=次期皇帝位)を授与され、またチロル領を継承・回収してフリードリヒ系ハプスブルク家が保持していた利権を保守した。
そして、断絶したアルブレヒト系ハプスブルク家が保持していた請求権----ハンガリー王位・ボヘミア王位についても《前々代の皇帝(ローマ王)アルブレヒト2世の権利を継ぐ者》として相続権を主張し、それを具体化する手段として「血縁の再統合」を図り回収を試みたのである。
確かにアルブレヒト系ハプスブルク家は、最後の男系男子ラディスラウスの死によって1457年に断絶していた。マクシミリアンが生まれる2年前のことである。
しかしラディスラウスの姉(つまりアルブレヒト5世の娘)エリーザベトの子孫がいた。要するに、女系でアルブレヒト系ハプスブルク家の血はまだ残っていたのだった。エリーザベトはポーランド王と結婚し、その子供たちはポーランド王・リトアニア大公を輩出した。そしてラディスラウスの死後(アルブレヒト系ハプスブルク家の断絶後)には英主マーチャーシュ1世の在位を挟んで、エリーザベトの長男ウラースロー2世がハンガリーとボヘミアの王となったのである。
マクシミリアンは、婚姻によってその王位請求権を得ようとした。こういう思惑もあってウィーン二重結婚が画策されたのだ。すなわちウラースロー2世の唯一の男子ラヨシュが皇帝の孫娘マリアと結婚し、ラヨシュの妹アンナも皇帝の孫の誰かと結婚するという計画であった。
1515年、こうして迎えたウィーン二重結婚の場に現れた56歳のマクシミリアン1世は、結婚する孫たちに優しく手を差し出し、ラテン語で宣言した。
「今日この日は、神によって選ばれた1日です。楽しく愉快に過ごしましょう」
この皇帝の呼びかけに民衆は歓呼に包まれ、それを見たハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世は感動のあまり声を忘れたという。
《痛風に苦しむ皇帝マクシミリアンとハンガリー・ボヘミア王ウラースローは駕籠に揺られ、ポーランド王ジグムントと若き王子ラヨシュは馬に跨って、彼らの前をハンガリー人、ボヘミア人、ポーランド人、モラヴィア人の騎兵が先導した。
オーストリアの全貴族が、皇帝に揃って参列して挨拶した。》
マクシミリアンは後にこの二重結婚の場のことを回顧して、
「数十年に渡って献身的に統治し、権利と秩序を確立し、新時代への道を開拓しようとしたことが報いられたと感じた」
と述べている。
《ウィーン二重結婚はシュテファン大聖堂にて、ハンガリー・ボヘミア王ウラースロー、ポーランド王ジグムントの同席の元で行われた。
マクシミリアンはまず、父フリードリヒ3世の墓の前に式服(100万グルデンにも相当した!)をかけてから、自分を代理人として王女アンナと結婚式を行った。
アンナが代理人に花束を渡すと、マクシミリアンは彼女に言葉をかけた。
「今あなたが私たちの花嫁になることを定められたのは、ここにいない2人の孫たちの名においてのことであり、あなたが2人のうちどちらかと結婚するという意味なのですよ。ここで約束しておきますがあなたは必ずどちらかと結ばれるのです。
それに私の孫カールはカスティーリャとアラゴンの両王国を、またフェルディナントはナポリを相続するでしょうから、いずれの場合でもあなたは女王と呼ぶことになります。ですからあなたに女王としての戴冠式を済ませてもらうことにしましょう」》
(※フェルディナントがナポリ王位を継ぐ構想は実現しなかった。歴史的に見ても、ナポリとハンガリーは親和性のある地域だった。以前にアンジュー家がナポリとハンガリーどちらも支配していたからであった。)
そして、「どちらかの家が断絶した場合は、もう一方の家が継ぐ」という約束もされる。二重結婚に感動をもって眺めていたハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世は、満足してしまったのか翌年に60歳で崩御した。わずか10歳になるかという幼い唯一の王子がラヨシュ2世として即位したが、彼はモハーチの戦いで20歳の若さで戦死してしまい王家は絶えた。そして王冠の利権は約束通り、ハプスブルク家へ、マクシミリアンの孫フェルディナントへ渡ったのである。
のちフェルディナントが皇帝位にのぼり、神聖ローマ皇帝+ハンガリー王+ボヘミア王+オーストリア大公と、かつてのアルブレヒト5世(2世)の手中に輝いた称号が戻ってきたのだった。
こうしてアルブレヒト系ハプスブルク家の権利も、レオポルト系ハプスブルク家と統合された。
参考文献
《全体を通じて》
アンドリュー・ウィートクロフツ(訳:瀬原義生)『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』(文理閣)
アーダム・ヴァントルツカ(訳:江村洋)『ハプスブルク家 ヨーロッパの一王朝の歴史』(谷沢書房)
岩崎周一『ハプスブルク帝国』(講談社)
菊池良生『図説 神聖ローマ帝国』(河出書房新社)
加藤雅彦『図説 ハプスブルク帝国』(河出書房新社)
菊池良生ほか『ハプスブルク帝国』(新人物往来社)
江村洋『ハプスブルク家』(講談社)
田中圭子「マクシミリアン一世のプロパガンダと聖ゲオルギウス」『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』36
田中圭子「皇帝マクシミリアン1世の墓廟構想」『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』48
江村洋『中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン一世伝』(中央公論社)