2「期待しないで待ってるわよ……バカ兄貴」
――それは、今から七年前のことだった。
「ふん、これでバカ兄貴ともさよならね」
(やだやだやだあ。お兄ちゃんと離れるなんてやだあ!)
その日は僕とほみかの別れの日だった。玄関口で、荷造りされた鞄を持ちながら、僕たちは最後の挨拶を交わしていた。
「……ほみか。もう会えなくなっちゃうんだから、お兄ちゃんにちゃんと挨拶しなさい」
父さんはほみかの頭にポンと手を乗せながら言った。
「いやよ。これでバカ兄貴の顔見なくてすむんだから。せーせーしてるわ」
しかしほみかは、プイッと横を向きながら吐き捨てた。心を読むまでもない。爪が食い込んで赤くなるほどギュッと握られたその手が、どれだけ別れが辛いかを物語っている。
この時ほど、僕は自分の能力を忌まわしく思ったことはないだろう。
ほみかの心の声を聞きたくないと思ったのも、この時が初めてだった。
(いやいやいや。どうしてほみかとお兄ちゃんが離れ離れにならなきゃいけないの? ほみかがワガママばっかり言ったから? お野菜ちゃんと食べないから? ほみか、ちゃんと良い子になるから。嫌いなセロリだって食べるから、お願い、お兄ちゃん。いなくならないで!)
そうだ。僕だってほみかと離れたくなかった。いや、ほみかだけじゃない。父さんや母さんとだって、一緒に暮らせたらどれほど……。
しかし、それは無理な話だった。妹は病気だからだ。病名は「ツンデレ病」。現代における社会生活特有の病気とされている。ホルモンバランスの乱れにより、思春期に発症する精神疾患の一つである。罹患する患者は好意を持つ異性に対して極端に余所余所しい、あるいは攻撃的な態度をとるようになる。一方である時期にはそれらに対し異様に寛容になってしまうという変化が見られる。
そのツンデレ病を――とある原因でほみかは発症していた。
口を開けば僕の悪口ばかり言う。手をつなぐことさえ嫌がり、僕と一緒だと旅行にも行きたがらない。そんなギスギスした関係の兄妹をもって、両親が疲弊しないわけがなかった。結局、家族それぞれ離れて暮らしたほうがいい、という結論に達したわけだ。
でも、ほみかの本心ではこの別れに涙を流していたのだ。
「……元気でいてね、ほみか。大丈夫、また会えるから」
母さんが言う。無慈悲で残酷な嘘を。もう二度と会えないことくらい子供心にも分かっていた。そして――どうすることも出来ないことも。
「ふ、ふん……。ほみかは嫌だもん。バカ兄貴と……もう会いたくなんか……」
(ふみゃあああああああ……! おにいぢゃんどわがれだぐないよぉ……)
俯きながら、プルプルと震える声でほみかは言った。これで良かったのかもしれない。ほみかの泣き顔だけは、絶対に見たくなかったから。
「ほみか……。そのままで聞いてくれないか……? 返事はしなくていいから。お前は世界でたった一人の……僕の妹だ。だから、たとえどんなことがあっても僕はお前を愛してる」
「――!」
(おおおおおお兄ちゃんなんでなんでなんで! なんで今そんなこと言うのお!? そんなこと言われたら、ほみか余計に泣いちゃうよお!)
下を向くほみかの瞳からは、ぽろぽろと涙があふれ、地面に染みを作っていた。ほみかだけではない。僕もだ。大粒の涙を流した。
父さんはいたたまれなくなったのか、僕の肩を抱いて言った。
「……えらいぞ透。ほみかを悲しませまいと言ってくれたんだな? えらいぞ……透」
別に僕は褒めてほしくなんてなかった。ほみかがそばにいてくれるなら、世界中の人から嫌われたってよかった。僕は、感慨深そうな父さんの手を振り払いながら、ほみかに向き直った。
「ほみか……約束するよ。いつか……いつかきっと。僕はお前のことを迎えに来る。そして……ほみかを僕のお嫁さんにする」
涙で滲む目で、僕はじっとほみかのことを見つめながら言った。ほみかは僕の顔を見ることなく、目を伏せたまま答えた。
「期待しないで待ってるわよ……バカ兄貴」
それは偽ることのない、ほみかの本心からの言葉だった。だからこそ余計に僕の心を深くえぐった。何の有効性もない、子供の約束にすぎなかったからだ。
そこから引越し屋さんが来て――父さんとほみかはトラックに乗る。それからの僕は、自分の部屋で魂が抜けたように呆然と過ごしていたのだった。そう、ほみかを失ってから。