14「透ちゃんは、誰にも渡さない」
あらかた曲も歌い、一時間ほど経ったところで、僕はトイレに向かった。正直に言って、時間を忘れるほど楽しい。仕方がなかったこととはいえ、離婚して離れ離れになった妹と、こうしてまた遊びにこれるようになったのだ。もう二度と会えないと思っていたほみかと。こんな日々が、ずっと続けばいいのになと思った。
「――大丈夫。続くさ。これからもずっと」
僕は独り言を呟くと、トイレを終え、手を洗うと個室を出た。
「――透ちゃん」
ドアの前には、りおんがいた。
「ああ、りおんか。りおんもトイレ?」
僕がそう尋ねると、りおんはふるふると首を横に振った。
「ううん。違うよ。透ちゃんにどうしても聞きたいことがあってね? ――抜け出してきたんだ」
(……ずっと、聞きたかったことなの。……だから、正直に答えてほしいな、透ちゃん)
「僕に聞きたいこと? 何かな?」
「……透ちゃんは今朝、わたしにほみかちゃんのことどう思ってるのかって聞いたよね? 今度は逆の質問をしていい? 透ちゃんは、ほみかちゃんのことどう思ってるの?」
(……透ちゃん、答えて? 透ちゃんは、ほみかちゃんのこと好きなの? もしそうだとしたら……わたし、許さないから)
りおんは光のない眼で、じっと僕を見つめていた。
共感性症候群で、りおんの心がわかる。彼女の心の闇が。それは、嫉妬――? 妬み――? 羨望――? いや、どれも違う。
(殺意……それは、本当に僕のことを好きでいてくれてるから……)
だから僕は、自分の素直な気持ちを答えた。
「兄なのに、こんなことを言うのは変かもしれないけど……僕はほみかのことが好きだよ。ずっと昔から。そして、これからも」
「それは……おにいちゃんとして? ……それとも……?」
(ねえっ、どっちなの? 透ちゃん。ほみかちゃんのこと、ただの妹として好きなの? それとも、一人の女の子として愛してるの? どっちなの? 答えてよぉっ!!)
「僕は、ほみかを守りたいだけだよ」
りおんの出方を窺いながら僕は答えた。さっきから、りおんはじっとヒヤリとした視線を送ってきている。間違いなく、ヤンデレ病が発症してる証拠だ。だから、僕は慎重に言葉を選んだ。
「ほみかが笑顔で、そして幸せでいてくれることが僕の全てなんだ。その対象が僕じゃなくても……それがほみかの選んだ結論なら僕はそれに従うまでさ。ほみかが、『本当に』僕のことを嫌いになったのなら、僕が家を出ていってもいい」
これが、僕の本心だった。
兄妹で結婚なんて、できるわけがない。どんなに愛しあおうとも。それはわかってる。だから、ほみかが本当に僕を拒絶して、他の誰かを好きになるというなら、それは仕方のないことだと思ってる。どちらにしても、いずれ決断の日はくる――僕はその時まで、あくまで兄としてほみかを守ることに決めたのだ。
この返事にりおんは下を向き「そっかぁ……」と小さくつぶやくと、勢いよく頭を上げた。そして、顔を赤くしながら笑顔でこう言った。
「じゃあわたし、透ちゃんの恋人に立候補する!」
「……へ?」
「……透ちゃん……わたしね。今までずうっと我慢してたの。でもね、言わせて。わたしは、一ノ瀬りおんは、透ちゃんを心の底から愛しています!」
(渡さないよ……透ちゃんだけは、他の誰にも。白輝さんにだって、ほみかちゃんにだって。透ちゃんを、わたしだけのものにするの)
りおんが身を乗り出して、ずいっと迫ってくる。僕の胸に彼女の巨乳が押し当てられる。荒い息が顔に吹きかけられる。色々な意味で、息がつまりそうだ。
「りおん、待って! その……返事……今じゃないとダメかな?」
僕は慌てて、りおんから距離を取りながら答えた。
「……考える時間がほしいってこと?」
(……考える時間なんてなくていいじゃない。どうせ透ちゃんとわたしは結婚するんだから。なんなら今ここで××する? わたしはいいんだよ? 透ちゃんがわたしだけしか考えられないくらい、監禁して拘束して骨抜きにしてあげるから)
りおんは真っ黒な眼で僕を覗きこんでいる。
冗談じゃない! どうして恋人同士になるのに監禁されなきゃいけないんだ!
「き、君が僕のことを好きだってことはよくわかった。でも、僕にだって心の整理がいるんだ」
さっき僕が離した距離を、再びりおんが詰めてくる。
「透ちゃん……どうして逃げるのかなあ? わたしのこと、別に怖くないよね? じゃあ、逃げる必要なんてないよね? 女の子は、好きな男の子に冷たくされるのが一番傷つくんだよ? わかってる?」
(透ちゃん……お願い。逃げないで? これ以上わたしを拒絶したら、透ちゃんの足を切り落として鎖で身体を縛って、一生わたしから逃げられなくするよ? だからお願い。逃げないで?)
「わ……わかったよ、りおん。もう逃げないから。落ち着いて?」
足を切り落とされてはたまらないと、僕は追いすがるりおんに正面から向き直った。
「透ちゃん……♡ でも、そうだね……。うん、ちょっと落ち着いてきたよっ。だから、透ちゃんにチャンスをあげる!」
(あげるよぉ……透ちゃんにチャンス。うふふ、といっても、百%わたしが勝つんだけどね)
心の中で不穏なことを呟くりおんが、僕に提案をかけてきた。
「チャンス? いったい、どんな?」
「三日間。透ちゃんに時間をあげる。ある条件つきでね? その間にわたしが透ちゃんの心を動かせなかったら、わたし透ちゃんのことサッパリ諦める。透ちゃんも、それでいいよね?」
「え、えぇ……?」
僕のことを諦める――ヤンデレ病を発症してるりおんから、そんな言葉が出てくることに僕は戸惑いを隠せなかった。
「ぼ、僕は別にかまわないけど……その、条件ていうのは?」
「うん、特に変わったことじゃないよ。わたしの言う条件っていうのはね?」
そう言ってりおんは、恐ろしい言葉を口にした。
「――ほみかちゃんと、アリサさんにも、このことを伝えるってことなの。ほみかちゃんとアリサさんの気持ちは分かってるから。このままだと、わたし一人が抜け駆けしてるみたいだし♪ 三人で不正も先回りもなく、正々堂々と闘いましょうってことだよ☆」
(うふふ、わたしは透ちゃんの一番になるんだよ。だから、わたし以外の雌は排除しないと駄目だよね。で、当然、マークすべきはほみかちゃんとアリサさんの二人ってわけ。あの二人は、くやしいけど女のわたしから見ても可愛いから。だから、つぶすの。邪魔だから。正々堂々と競い合うていを装っておけば、あの二人も負けを素直に認めるはずだから。だから、勝つのは絶対にわたし。十六年間、ずっと透ちゃんのことを思い続けてきたんだから。透ちゃんは、誰にも渡さない)
りおんは、満面の笑みでそう言った。心の中で危険なことを考えてるなんていう感情は、少しも表に出さずに。
「ん? どうしたの? 透ちゃん。変な顔して」
「……いや、なんでもない。いいよ、その条件を呑もう」
「わぁい、やった☆ じゃあ、さっそくこのことをほみかちゃんや白輝さんにも伝えてこようか。ルームの滞在時間もギリギリだし、そろそろもどろ? 透ちゃん」
微笑を浮かべながらりおんは踵を返した。
「あ、そ……そう……。そう、だね……」
僕は無理に笑顔を作りながら、りおんの後に続いた。
(りおん? いったい、何をするつもりなんだ?)
そう聞けば。答えを知ることが出来たはずだった。
なのに僕には、どうしてもそう尋ねることができなかった。
僕の心境を知ってか知らずか、りおんは鼻歌を歌いながら部屋に足を運んでいた。




