49「……もう、止めてください……」
「ぐはっ!」
短い叫び声をあげて。青木ヶ原は地面に倒れた。僕の拳は相当深く入ったらしい。奴は顔を抑えたまま地面を転がり続ける。その手の隙間からはボトボトと血が流れ落ちている。どうやら、歯も何本か折れているようだ。
「ぐうっ……」
青木ヶ原は立ち上がった。大量の鼻血を流して。目を涙で歪ませて。ハッキリ言って無様な顔だった。せっかくの二枚目が台無しだ。
「ぎぎぎ……」
奴は歯ぎしりをした。どうやら、相当頭に血がのぼってるらしい。しかし、これは僕にとって好都合だ。もはや、冷静に技を繰り出す余裕も失ってるだろう。
「くそがああああああぁぁぁぁぁ!!」
僕の思ったとおり、青木ヶ原は先ほどの華麗なフットワークを忘れたかのように猪突猛進してきた。早いことは早いが、ただ真っ直ぐに突進してるだけだ。青木ヶ原は僕に向かって右拳を振り上げてきた。
僕は迎え撃とうと構えをとった。
その時。
「――くらえ!」
「なっ!?」
青木ヶ原は右拳を振り下ろさなかった。
代わりに拳を広げて、手のひらから砂をかけてきた。
いわゆる目潰しというやつだ。僕は一時的にだが視界を奪われ、その隙に青木ヶ原は、僕の胴元にタックルを仕掛けてきた。
「ぐうっ!」
砂をかけて馬乗りになって。まさに子供の喧嘩だった。
青木ヶ原は何度も、僕の顔を上から殴りつけた。くちびるが切れ、鼻血が出る。
それでも青木ヶ原は殴り続けた。奴の拳が、僕の血で真っ赤になるまで。
「ひゃははははは! ボケが! カスが! どうだ! これがスーパー金持ちの高等テクニックってやつだ! 思い知ったか! 貧乏人風情がよおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
青木ヶ原は奇声まじりに叫んだ。
「バカな奴だてめーはよ! たかが女一人のために体張りやがって! 俺にとっちゃアリサなんざ、山ほどいる妾の一人に過ぎねーってのによお!」
罵倒を浴びせながら、僕の顔を殴る、叩く、引っかく。
人というのはこういうものなんだろうか。薄れゆく意識の中で僕は思った。正々堂々戦うと明言した本人が、あっさりルールを破ってしまったのだ。高すぎるプライドは、薄っぺらい倫理観を簡単に破壊してしまうものらしい。半狂乱になりながら拳を下ろす青木ヶ原を見上げ、僕はぼんやりとそう思った。
「……っ!」
不意に、青木ヶ原が拳を止めた。
決して罪悪感を感じたわけではないだろう。
その証拠に、青木ヶ原は後ろを振り返りながら、
「なぜ止める? アリサ」
「……もう、止めてください……」
アリサさんは、震える手で必死に青木ヶ原の腕をつかみながら、
「……もう、神奈月さんを殴らないでください。これ以上やったら、死んじゃいます……」
「だから何だ? 男同士の問題に口を挟むなと言ったはずだが」
「……お願いします、お願いします……」
「ふん。まあ、いいか。今日の所はこれくらいにしといてやる」
青木ヶ原は、すっくと立ち上がった。どうやら、興がそがれたらしい。
「しかし、これでよく分かったろう? 俺に逆らうと一体どうなるのか。お前どころか、白輝財閥そのものを壊したっていいんだぜ。それだけじゃない。お前に関わる全てのものを、だ。分かったら、大人しく俺の物になれ」
「…………はい」
そんなような会話をしていた気がする。
気がするというのは、何発も殴られすぎて僕の意識が朦朧としていたからだ。体調が万全なら青木ヶ原を殴ってやったが、残念ながら今の僕には何もすることが出来なかった。
「それじゃあ、僕はこれで失礼させてもらうよ」
青木ヶ原は、蔑むような傲慢な視線を僕にぶつけて言った。
「お前もよくわかったな? 今度俺に楯突いたら、お前の家ごとメチャクチャにしてやる。これに懲りたら、金持ちの世界のことに首を突っ込まないことだな」
「……くそ」
僕は、それだけ言うので精一杯だった。
青木ヶ原はそんな僕を見下しながら、僕とアリサさんを残して、一人高笑いを浮かべ去っていった。その後姿を見て、僕は自分の無力さを痛感することしかできなかった。




