遠距離というハードル
第3話「招き猫作家としての苦悩」
僕は3歳の頃に初めて招き猫に興味を持った。
それは平成5年の冬の事。
僕は家族と千葉の館山に住む、祖母の家に遊びに行った。
築100年くらいは経っているのだろうか、昔ながらの木造の家に住む祖母の家は当時アパートに住んでいた僕に取ってはお気に入りの場所で食事をするいろりやせんべい布団、薪を炊いて湧かす五右衛門風呂などある物すべてに驚いていた。
丁度この日の料理は、カレイの煮付けと庭で取れたふきのとうの和え物と炊き込みご飯とみそ汁。
ご飯は薪で炊いたもの。
ところどころにお焦げができていて、香ばしい味がしたのを今でも覚えている。
その日の夜、僕は当時流行っていたポポニャンの人形で遊んでいたらたまたま置いてあった張り子の招き猫にぶつかって倒してしまった。
思わず倒れた招き猫をじーっと暫く見つめていた。
その招き猫は三毛猫だったのだが、招き猫独特の造形美に幼いながら一目惚れしてしまった。
翌日東京に戻る日に僕は招き猫を抱えていた。父は「それはおばあちゃんのものだから、置いてあった場所に戻さないと駄目だよ」と僕に注意をしたが、僕は「いやだ、僕が欲しいんだもん 気に入ったんだもん だからこの猫ちゃん持ってかえるの」とダダをこねた。
すると祖母はムッとしてる父に「まあ、良いじゃないの 駿ちゃんが気に入ったんだから 駿ちゃん、その招き猫は駿ちゃんにプレゼントするからね 持って帰っていいのよ」と招き猫を没収しようとする父を制止した。
僕は当時凄い嬉しかったんだろうな 「僕の招き猫ちゃん 今日から僕の相棒」ととても喜んだのは今でもはっきり覚えている。
それからは毎年各地の招き猫を集めるようになり、小5の頃には紙粘土で自分で招き猫を作るようにもなった。
高校に入ると美術部に入り、招き猫の絵ばかり書いていたものだからいつしか部内ではまねしゅんというあだ名がついた。
当時同じ部の女子と交際していたが、「駿くんは、私の事よりも招き猫の事ばかりしか考えてないんだね、私じゃなくて招き猫が恋人でいいじゃん」と半年ほどでふられてしまった。
大学は陶芸学科があるところに進学し、4年間ひたすら招き猫を作り続けた。
その時交際していた人達も高校時代と同様の理由でふられた。
大学の友人達からは、招き猫オタクまねしゅんと呼ばれ、招き猫ギャグで「招き猫なのに何も招かないニャー」と言われたりして散々からかわれた。
それが悔しくて大学2年の時に軽音部に入り、毎日ライブでドラムを叩いていた事もあった。
でも、それも自分のやりたい事と全然違う気がして3年の頃に退部した。
大学に招き猫サークルなるものはなかったので、無いのなら自分で作ろうと男4人で招き猫サークルを作った。
招き猫に興味ある人はあまり居ないのだろう、卒業まで結局一人も入らず卒業を迎えた。
あとで後輩から訊いた話によれば、のちに2人ほど女性が入部したらしい。
2人の内の1人の後輩女子部員とは後輩男子の紹介もあって仲良くなり、今ではたまに制作で行き詰まった時とかに電話で相談したりもしている。
僕は3年前から招き猫作家として、最初は貸しギャラリーでの個展から始め今では店舗を構えるまでになった。
しかし、財力的に大きな工房や良い設備はまだもてない。
食事はほぼ毎日カップラーメンかコンビニのパン。たまの贅沢は母が仕送りで送ってくれるボストの弁当。
そこまで頻繁に売れる訳でもなく、売れない時期は本当に辛い。
あまりにも売れなくて、友達に電話で泣いた事もあった。
今僕は作家として、今後も活動していこうとしている。
夜20時、僕の携帯に1通のメールが届いた。差出人は加冶屋さんからだ。
内容を観てみるとこう書いてあった「松下さん、春休みにあわ森まで遊びに来なよ、日にちは3月26日でどうかな?」と。
よし、その日は店を定休日にしよう。
僕の中で、迷いがふっとんだような気がした。
次回 第4話「出発」に続く。