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葛飾、最後のピース  作者: ぐろわ姉妹
一英編(時:2010年)
6/76

第6話 突然の報せ

 瑠奈の出発から数日が経った平日の朝。


いつも通り念入りな整髪をして曇りのない眼鏡をかけ自宅を出た一英は、朝日が差しこむ最寄り駅のホームで瑠奈にメールを打ちながら横浜線を待っていた。


 電車の到着を教えるアナウンスが響くと同時に、携帯電話が震える。


画面に映された『母』の文字に、眉をひそめた一英が通話ボタンを押す。


「もしもし?」


「あぁカズ!」


 その取り乱した第一声で、ただ事でない不安がよぎる。


一英が尋ねる前に母、洋子ようこは矢継ぎ早に続けた。


「どうしよう、

父さんが倒れて意識がないんだよ! 

あんた今すぐ来れないかい、

父さんもしかしたらこのまま……!」


 電話口の洋子は異常なまでに慌て、誰かと会話しているらしいくぐもった声が聞こえてくる。


乗車待ちの列から外れた一英は周囲の雑音から逃れようと、空いている片耳に指を突っ込む。


「救急車」という単語だけは聞き取れたが、ほかは何を言っているか解らなかった。


 父に何が起こったのだろう。


普段ならこの時間、父は誰よりも早く工場に出て機械の点検をしているはずだ。


倒れた? 危篤状態なのだろうか。


先日の観覧車で縁起でもないことを思った自分を責めずにいられない。


 何度母を呼んでも、ざわざわした意味を成さない音だけが聞こえ、走り去る電車とともにそのまま通話が切れてしまう。


動転した母が押し違えたのかと思い再度こちらからかけてみるものの、母の携帯は呼び出しを続けるだけで、姉や弟のほうの携帯も通話に出ることはなかった。


 実家の固定電話もやはり出ず、平日のこの時間帯には有り得ない事態に心臓が早鐘を打つ。


額に汗した一英は会社に連絡し、乾ききった喉を震わせて事情を説明すると、そのまま電車に飛び乗り実家へと向かった。


 いつもなら畑のあるのどかな風景が車窓に過ぎ行くのを眺めるのだが、今ばかりは携帯を握りしめてこれから向かうことを家族にメールする。


横浜駅で総武快速線に乗り換えたあとの車窓は一時間もしないうちにビルばかりが見えるようになり、一英はあたりにこだまする喧騒に対してか、一向に返信が来ないこと対してか解らないが、とにかく苛立ちとともに胃の不快感を覚えていた。


 地下ホームとなる東京駅でドアが開いた瞬間、一英は鼻腔を貫いた強い悪臭に思わずむせ返った。


クーラーの効く車内に生ぬるい風がじわりと入ってきて、生ゴミとヘドロを凝縮したような、あまりにもひどい臭いが車内に充満していく。


一英は顔をしかめ綿のハンカチで鼻を覆うと、なかなか閉まらないドアと音沙汰のない携帯とを何度も見やった。


 そこから十数分で実家のあるJR新小岩駅に着き、どうしても頭に湧いてきてしまう最悪の事態をかき消しつつ、一英は電車を飛び出す。


ホームに出た途端、東京駅で襲ってきたものより格段にひどい悪臭が鼻をついた。


(なんなんだよ、この臭いは……!)


 ドブなのか小便なのか、とにかく排泄物を思わせるような臭いにむせ返りながらホームを駆け、母に発信した携帯を耳に当てる。


だがやはり応答はなく、階段を駆け下りながら発信先を姉に切り替える。


それでも通じず弟の裕貴にかけると、数回のコールの後やっと繋がった。


「裕貴! 

父さんどうなった!」


 こちらから真っ先に声をかけると、すぐには把握できなかった様子の裕貴は「兄ちゃんなんで知ってんの?」と素っ頓狂な声を上げた。


「どうなんだ、大丈夫なのかよ! 

俺いま新小岩着いたから、これから向かう、病院どこ!」


「嘘、兄ちゃんこっちいるの? えぇ? 

あ、えと、じゃあ、

俺もこれから病院に行くとこだから、

蔵前まで迎えに行くよ」


 一英は呼吸ごとに体内を毒していく空気をかき分けながら、北口の改札を目指す。


 こんな状況で帰ってくることになるとは思わなかった。


 そう思いながら、いやこんな状況にならなければ帰ることはないと思っていたじゃないかと、思い直す。


 改札を抜けるとすぐ、ワンカップ片手に日陰をうろうろしていた酔っ払いに声をかけられた。


「よぉ、兄ちゃん、

一緒にのまねぇか?」


 朝からアルコール臭い中年男は、満面の笑みで一英の肩を叩いてくる。


その手を乱暴に振り払いたい衝動を抑えながら、一英はできる限り紳士的に口角を上げた。


「失礼」


 しつこく食い下がる男を完全無視し、駅前の小さな商店街を人波に逆らって駆ける。


そこかしこにゴミが落ち、容赦なく太陽に熱せられているその道の真ん中で、今度はマネキンのように突っ立ったおばさんに出くわした。


 この辺りでは割と有名なその女は、造花が大量にまとまりなくささったアバンギャルドな麦藁帽を頭にかぶり、手にはレースカバー付きの古めかしい黒電話を持ち、目つきはほぼ別次元を見ている。


(この人まだいたんだ)


 そう思いながら一英はうんざりした眉をひそめ、駆ける足を速める。


 すると、黒電話おばさんは一英の行く手に踏み出し、ガチャリと持ち上げた受話器を耳にあて、明後日の方向を見ながらも確実にこちらに向けて口を開いた。


「ねぇお兄さん、神様知らない?」


 言ったあとすぐさま受話器が置かれ、昔懐かしい、チンという音がした。


めまいを覚えた一英だが、こんなことにかまけてはいられないと、やはりここでも「失礼」とだけ微笑み、先を急ぐ。


 だが黒電話おばさんは思いのほかフットワークが軽く、直進しようとする一英の前を執拗にふさいでくる。


その攻防を避けきれなかった自転車のおばさんが急ブレーキをかけ、下品な金切り音が断末魔のように響き渡る。


「ちょっと、危ないじゃないのよう!」


「失礼」


「ねぇお兄さん、神様知らない?」


「失礼」


 おかげで一英は曲がらなくてもいい角を曲がり、全力疾走で黒電話の追跡を振り切り、蔵前を目指す。


(この街は昔からそうだよな。

何も変わっちゃいない。

でも俺はもう違うんだ。

頼むから俺に構うな、新小岩……!)


 腹の中は苛立ちで溢れそうなのに、一英は見た目にはまったくそうとは解らないスマートさで街を駆ける。


 東京都葛飾区の最南端にある新小岩というこの街は、昔から酔っ払いや不審者が多く、そういう人物に一英はなぜか高確率で絡まれた。


 こんなにも厄介な輩が多い理由は駅前を見れば明らかだ、と一英は思う。


パチンコ屋やゲーセンがひしめき、雑居ビルの中にはカラオケ、テレクラ、個室ビデオ。


あまつさえトルコ風呂まで揃っているのだから、健全な大人ならばこの欲望むき出しの駅前状況には辟易とするだろう。


 六年ぶりのたつみ橋交差点は大きな歩道橋が無くなり高架ができていて、そこから少し離れた自転車置き場の前に井梶プレスのミニバンは停まっていた。


逃げるように乗り込んだ一英がいきなり怒鳴る。


「新小岩は放置自転車より、

ああいうやつらを重点的に取り締まれよ!」


「なんだ、どうした、兄ちゃん!」


 飛び退いた裕貴の肘があたり、ッパーとクラクションが鳴る。


 実家を出てからはまったく家族に会っていなかった一英だが、裕貴だけはよく「横浜に遊びに来た」と言っては一英の部屋に泊まりにきていた。


 クーラーの風に前髪を煽られる一英は、流れ落ちる汗をハンカチで拭いながら弟の横顔を覗き込む。


「父さん大丈夫なのか」


「どうだろ。

でも死んでないよ」


「倒れたって、どうして」


「そりゃやっぱ、

具合悪かったんでない?」


 作業着に身を包み実に適当な返答をする裕貴は、昔からこんな調子の男で、一英の焦りに反して法定速度の安全運転でハンドルを握る。


一英以上に短く立ち上がった、ヒヨコみたいな髪型も昔から変わっていなかった。


 ◇


 青戸にある救急病院へと駆けつけた一英は、裕貴とともに父のいる病室へと向かった。


ナースセンターの前にいた姉、美洋みひろが気づいて手を振る。


「カズ、こっちこっち! 

ごめんね、母さんが慌ててあんたにも連絡しちゃったって言うから――

って、あんた見ない間に、随分オッサンじみたわね!」


 自分のほうこそ見ないうちに随分と化粧慣れした美洋は、一英の顔をぐしゃぐしゃと遠慮なく撫でくりまわす。


「え、なに? 

いつから眼鏡してんの? 

視力落ちたの? 

きゃー、ひげも濃くなって、姉さんショックー! 

出てった頃はまだジャニ系だったのに~!」


 年配者からよく菩薩顔と敬される彼女の丸顔には、柔らかく弧を描いた眉と細い鼻があり、二重の大きな目は嬉しそうに笑んでいた。


自然な形で引きあげられている口元がまた、菩薩顔をことさらそれっぽく見せている。


 そんなことどうでもいいだろと、一英は美洋の手をつかんだ。


「父さんどうなの!」


「あぁ、脳梗塞だって」


「脳梗塞!?」


 一英は青ざめるが、その後ろにいる裕貴はのん気にナースセンターを眺めたりしている。


事もなげに頷いた美洋が続けた。


「でもラクナ梗塞っていう、軽度のものなんだって。

命に別状ないそうよ。

倒れてるの見つけたとき意識なかったから大騒ぎしたんだけど、

それは脳震盪が原因だったみたいでね。

検査の結果、他に危険な症状は見つからなかったそうよ。


ちょっと右半身が麻痺してるから十日程度の入院が必要だけど、麻痺も軽いし、リハビリすれば仕事復帰できるらしいから、とりあえずは大丈夫だって」


「そう……なんだ。

よかった」


 ほっとする一英に、美洋は真ん中分けの長い黒髪を揺らして呆れかえる。


「まったく母さんたら動転しちゃって、

救急車より先にあんたに電話しちゃうんだから」


 続けて「父さんの病状、裕貴から聞かなかったの?」と尋ねられ、一英が首を横に振ると、美洋は裕貴の耳をつかまえて「あんたねぇ」と捩じ上げる。


「仕方ないじゃん! 

『とにかく大丈夫』ってとこしか覚えらんなかったんだよ! 

電話で一回説明されたくらいじゃ、解んないって!」


 情けない声で痛がる裕貴が美洋に引きずられ、一英はそのあとについて父のもとへと向かう。


すると病室の前で、洋子が看護婦に頭を下げていた。


「本当にわがままばかり言って、

ご迷惑おかけして申し訳ありません」


「いいえ。

多かれ少なかれ、患者さんはわがままなものですから。

今後どうなさるかは、また後ほど伺いに参りますので」


「よろしくお願いします」


 すぐに洋子は病室から呼ばれ、優しげな笑顔で去っていく看護婦に美洋が深々と頭を下げる。


解放された耳をさすりながら、裕貴がきょとんとして眉を上げる。


「わがままって?」


「父さんよ。

大事に至らなかったのはいいけど、

医療以外で他人に身体を触れられるのは嫌だなんてゴネちゃってさ、

看護婦さんがいくら理由を聞いても、

着替えに食事、トイレの介助は、妻にさせるの一点張り。

で、今やっと母さんが着替えさせたとこ。

ほんと頑固一徹なんだから」


 美洋は大きな溜め息をするが、裕貴はへらへらと笑いながら一英を肘でつつく。


「え~、いいじゃんねぇ? 

美人ナースにお世話されるとか、夢でしょ、逆に」


 一英は何も答えないのに、裕貴は一人、ゆで卵の白身に似た毛浅い頬を興奮に火照らせる。






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