第1話 言えなくなった言葉
一九九三年八月、新小岩には陸で喘ぐ魚がいた。
◇
それはまだ、あの人と出会う前のことだった。
小学四年生の夏休みも、そろそろ終わりを迎えようとしていたはずだ。
その日は近所の盆踊りへ行くために友達と集まり、夕方から自転車で遊びに出ていた。
だが、盆踊りが始まるまでにはまだ時間があり、俺たちは河川敷へと向かう。
河川敷でならうるさく遊んだって誰にも怒られないし、なにより俺たちはそこから見える夕日が好きだった。
クラスで一番大人しい男子だった俺は、明るくもうるさくもなく、陰気でも嫌味でもなかった。
性格的には、特に際立ったところのない人間だと思われていたかもしれない。
ただ、母親に似た容姿については、よく可愛らしいとか線が細いなどと言われていた。
そんな俺は当然人を先導するようなタイプではなく、その日も河川敷へ向かう自転車列の最後尾を走っていた。
車通りの多い商店街を抜ける途中、道を挟んだ向かいから聞き慣れた声がかけられる。
「ヨシくーん!」
見れば、人懐っこい笑顔を浮かべた母が、スーパーの自動ドアをくぐってくるところだった。
両手に大きなレジ袋を提げ、大げさなくらいよろめいて見せるのが胸に痛い。
「もう! いいところに来てくれちゃって!
やっぱり親子なのねぇ、運命感じちゃうわぁ!」
「……母さん……」
俺の母は見た目からして、そこらの主婦とは明らかに違う人だった。
顔だけで言えば、眉は緩やかに八の字を描き、すっきりとした奥二重は上がり目で、小さめの鉤鼻がご丁寧に鼻の穴を隠し、ふっくらとした唇も小ぶりで品よく作られている。
この整った顔立ちのおかげで『幾つになっても目を引く美人』という評価があったが、それは違うと俺は思う。
彼女が人目を集めるのは、その佇まいに、所帯っ気がまったく感じられないからだ。
子持ちとしてあるべきものがなく、派手に浮世離れしていたと言ってもいい。
その日もきつくウェーブしたロングヘアを無造作に結い上げ、下着じみたキャミソールに短いスカートを合わせ、ヒールの高いサンダルを履いていた。
夏とはいえ、露出度の高さと真っ赤な口紅には、母親らしさの欠けらもない。
彼女の難点は、この悪目立ちのほかにも、隠しきれないなまめかしさがあったことだ。
本人に隠す気がないのだから、だだ漏れ状態なのもなお悪い。
若い頃から気さくさが売りで、よく俺のクラスメイトなんかにも親しげに挨拶をしていたが、滲み出る色気のせいで男児を持つ母親たちからは当然のごとく嫌われていた。
母はスーパーの前で、往来する車に負けないよう甘ったるい声を張り上げる。
「ねぇ、これ重いのよ!
手伝ってくれるでしょう?」
俺はその要求にハイハイと応えることができなかった。
母と一緒にいるところを友達に見られるのが、恥ずかしくなる年頃に差し掛かっていたからかもしれない。
遠のいていく友達の背を急いた思いで確かめながら、俺は湧いた躊躇を口にする。
「でも俺、今からみんなと土手行くから――」
すると母はひどく悲しそうな顔をして、こちらの罪悪感を誘うように頬を膨らませた。
「へぇ、あたしより友達のほうが大事なのね。
そうですか、そうですよね、もういいですよ、もう頼みませんから。
ヨシくんのばーか」
ふてくされた睨みを残した母は、コケそうになりながらも走って逃げていく。
いい大人があんなふうに拗ねた態度を取るなんて、きっと誰もがドン引きするだろう。
だが、あれが計算でもおどけでもなく、心底から傷ついた本気なのだということを俺は知っていた。
先を行っていた友達が自転車を止め、不思議そうにこちらを振り返る。
「おーい、瀬ノ塚ー! どうしたー?」
「早く行こうぜぇ!」
東西に伸びた道の、西で待つ友達と、東へ逃げた母。
その両者を見比べ、俺は仕方なく屈託のない笑顔を作り、友達のほうへと手を振った。
「ごめん、ちょっと行くとこできちゃった!
また明日ね!」
いつもこれだ。
いつもあの顔をして俺を困らせる。
人を責めなじるような母のふてくされた表情は、俺の胸をいつもひどく痛めた。
自転車を走らせた俺は母が逃げた方向ではなく、別の道へとペダルを強く踏み込む。
裏道を迂回してスピードを上げれば、母より早く帰宅するのは可能だった。
風を切る俺は、きっと苦悩の顔をしていただろう。
トタン張りの大きめな町工場が見えてくるや、その無機質な外観に心臓が早鐘を打つ。
俺は『瀬ノ塚塗装』と書かれたその前で急ブレーキをかけると、慌てて自転車を飛び下りた。
閉まっているシャッターに飛びつき、鍵がかかっていることを確かめたあと、脇にあるドアも確かめ、それでも中に向かって声をかける。
「母さん?」
返事はなかった。
日曜で誰もいないはずなのだから、当然だ。
だが俺は、母が工場へ逃げ込んでないことにほっとするような子供だった。
工場を離れ、隣に建つ瀬ノ塚家の玄関へと向かう。
瀬ノ塚の家は戦後すぐに建てられた一軒家で、重たい瓦屋根に黒ずんだ板張り外壁は当時でも相当に古臭かった。
玄関先に植えられた桔梗だけが、青紫の星々を鮮やかに散りばめている。
流星群のように揺れるその向こうに、一足遅く帰ってきた母がむすっとした顔で歩いてくるのが見えた。
良かった。
ちゃんと生きていたのだ。
玄関前にいる俺に気づくと、母の頬は嬉しそうに緩みかけた。
だが俺が先に微笑んだことで反射的に再び頬を膨らませ、母は俺を無視するように玄関のガラス戸を開ける。
俺は、無言で家に入っていく母の手からそっとレジ袋を取り上げ、運ぶのを手伝った。
母の機嫌を取ろうと、買ってきたものを率先して冷蔵庫に入れる。
人が歩くたび、床板がぎしぎしと軋めいていた。
「さっきはごめんね。
冷たいこと言って断って」
「ごめんじゃないわよ。
ぜったい許さない」
「だって友達がいたんだもん。
許してよ」
本当の理由はそれだけじゃない。
だがそれは、口が裂けても言えなかったし、気づき始めた自分さえ俺は誤魔化そうとしていた。
牛乳パックを何本も冷蔵庫に放り込み、次は出来あいの惣菜パックやらプリンやらを放り込む。
背を向けたままでも、膨れっ面の母がつんとした目で見つめてきているのは解っていた。
しばしの間ののちに母が言う。
「ねぇ――
あたしのこと好き?」
母からその質問が出ると、俺はいつも言い返す言葉を失う。
答えなければと解っている言葉が喉で詰まり、声が出てこなくなるからだ。
だから代わりに頷いて見せる。
だが背中越しのそれを見た母は、案の定、少々冷たい声色へと変わった。
「――嫌いなんでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあ、あたしのこと大事?」
「うん」
「嘘ばっかり。
どうでもいいんでしょ?」
「そんなことないってば」
こんな会話をする時、母の顔を見るのは怖かった。
矢継ぎ早の応酬に背を向けたまま、俺は空になったレジ袋をねじって結び、立ち上がる。
ぐすっと鼻をすする音に思わず振り向くと、涙を落とした母がこちらに手を伸ばしてくるところだった。
Tシャツの胸元をそっとつままれ、甘えるようにクンッと引っ張られる。
それは抱きしめて欲しいという合図だった。
ここで断ったらこの人は激怒する。
それも知っていた俺は、湧き上がるためらいを強引にねじ伏せ、求めに従って母に抱きつく。
「ヨシくんのばか……」
ぎゅうっと抱きしめ返されながら、痩せて骨ばった母の背をゆっくり撫でる。
台所の小さな窓には、狂おしいほどの夕焼けが映っていた。
竹の模様のすりガラスが少しだけ開いていて、俺はまだ自分よりも背の高かった母の肩から、真っ赤な空を見上げる。
あの日もこんなふうに、燃えるような夕日だった。
それを思い出してさえいれば、母がぐすぐすと泣く声は気にならないような気がしていた。




