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葛飾、最後のピース  作者: ぐろわ姉妹
一英編(時:2010年)
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第1話 覚えた悪のにおい

 一九九三年八月、新小岩にはほんとのヒーローがいた。


 ◇


 あの日、夏休みも残すところ二週間となった炎天下を、野球帽の俺は自転車で駆け抜けていた。


小学四年生になったその年の春に近所の上級生からもらったお下がりだったが、体に合った子供用のそれは父の整備のおかげもあってか、母のママチャリを乗り回すよりはずっと快適だった。


 当時の俺は背こそ低いが、健康そうに黒く焼けた肌を周囲の大人からよく誉められ、張りのある黒髪もまっすぐに太い眉も、スポーティーなその印象によく合っていると言われるような少年だった。


 額から垂れる汗が熱い風に吹かれ、忍者のようにたすき掛けした細長いナップサックがじっとりした背で揺れる。


俺は古びた二階建てアパートの前で自転車を停めると、軽快な二段跳びで階段を上がった。


 最上段に着いたところで、廊下の奥から若い女性の声がかかる。


「いらっしゃい!」


「あ、江田ねぇだ」


「春樹なら中にいるよ。

春樹! カズくんよ!」


 レースの暖簾が揺らぐ開けっ放しのドアから、クラスメイトである江田の慌ただしい返事が聞こえる。


ショートヘアが涼しげな江田の姉は、玄関横に備え付けられた洗濯機をばかっと開け、脱水し終えた服をたたみ始めるところだった。


「ねぇ、カズくんちって洗濯機は家の中?」


「うん。

おーい江田っち、はーやーくー」


「はぁ、いいなー。

うち、最近下着盗まれるんだよねぇ」


 玄関から漂ってくる風を江田家のにおいだなぁなどと考えていた俺は、驚いて顔を上げる。


「泥棒?」


「そうよ、下着ドロ。

洗ったまま忘れちゃう私も悪いんだけどね」


 見れば江田の姉はちょうど小さな下着をたたんでおり、日光を反射して弾ける白に俺は眉をひそめた。


 江田家の両親は共働きで帰りも遅いらしく、普段から江田の姉が家事全般をこなしていたようだった。


高校生だというのに下校後は友達と遊びもせず、家計の足しにとスーパーでアルバイトをし、週に何度かは進学塾にも通っている。


そのことを、自分の母がよくよく褒めちぎっていたのを俺は思い出した。


「さぁて干すか」


 洗濯かごを抱えて暖簾をくぐっていく彼女と入れ替えに、ひょろりと背の高い江田が玄関を飛び出してくる。


笑いながらいつものように階段を三段跳びで下りていく俺たちの背には、江田の姉から「五時には帰るのよ!」という声がかかっていた。



 その数日後、友人と遊ぶうち門限に遅れてしまった俺は、大慌てで帰路を全力疾走していた。


 江田の住むアパート前を通りかかり、ふと見上げると、目隠しもなにもない鉄柵だけの廊下で、太鼓腹の中年男が江田家の洗濯機をあさっているのが目に入る。


江田の父親でないことが一見して解った俺は、思わず驚愕の声が出そうになる口を手で抑え、急いで物陰に隠れた。


 陽は傾いているものの空はまだ暗くなるには少し早く、人目に付きそうなこの時間に人目に付きそうなことをあんなにも堂々と行っている男に、俺の鼓動は走っていた時よりもずっと速くなった。


「江田っち、たしか稽古だよな……」


 金曜のこの時間、江田の両親はもちろん仕事だし、江田の姉はスーパーでアルバイト、いつもいるはずの江田も剣道の稽古で不在だった。


あの中年男はそれを知ってやっているのだろうか。


留守なのをいいことに、我が物顔で泥棒を働いている卑怯な男にむかむかと腹が立ってくる。


 俺は、まだ洗濯機に顔を突っ込んでいる男を睨むと、あいつを懲らしめるのは自分しかいないと決意し、物陰からそっと忍び出た。


 そして、一階にあった誰のものかも知らない自転車から積荷用のロープを解き、一端を鉄格子みたいな階段の柵に縛りつける。


一番下の段、それも足元の見えにくい位置にロープを這わすと、もう一端を握りしめ、俺は階段の下に身をひそめた。


 急いでポケットから使い捨てカメラを取り出し、たすき掛けの細長いナップサックも胸の前へくるよう首にかけ直す。


この二つは遊びに行く時にはいつも持って出る気に入りの道具で、使い捨てカメラは撮影済みのフィルムを取り出した後、父親からオモチャ代わりにと与えられたものであった。


まさかこんな状況で使うことになるとは思わなかった道具を汗ばむ手で握り直し、俺は階上の気配をうかがった。


 ほどなくして洗濯機を無造作に閉める音がし、ドスドスまたはのしのしといった足音が廊下を渡り、階段を軋ませながら男が下りてくる。


物音を一切隠そうとしないふてぶてしさにも、俺の幼い義憤は一層沸き立った。


 泥棒の去り際にロープで足を引っ掛け、不様に転ばせたあと、下着を手にしている決定的場面をこの使い捨てカメラで激写する。


証拠写真を撮られたと思い込んだ泥棒はきっと追いかけてくるに違いないから、ナップサックに入った最終兵器をためらいもなく使いながら逃げ回り、恥にまみれた姿を惜しげもなく人前にさらしてくれよう。


そして観客が出揃ったところで満を持し、俺は高いところから貴様めがけて飛び降り、豪快スーパーキックでとどめを刺してやるのだ。


 そんなことを妄想し、完璧な脳内シミュレーションに鼻息を荒らげた俺は、下りてきた泥棒の足取りに合わせ、これ以上ないくらいのジャストタイミングでロープをぐんと引っ張った。


泥棒は見事それに足を取られ、地に叩きつけられる――はずが、予想外にも泥棒は最後の一段を抜かして飛び降り、何事もなかったようにアパートを出て行ってしまう。


 階段の下で声を殺しながらうろたえた俺は、引っかかることも踏まれることもなかったロープを地面にたたきつけ道路に飛び出した。


だが走り去っていく軽トラックに追いつくことは、当然ながらできなかった。


「くそっ!」


 完璧な作戦と実行力がありながら悪人を取り逃がしたことが悔しくて、俺は帰宅後にこっぴどく母から浴びせられた小言など、何ひとつ耳に入らなかった。


その後も数日間、またあの下着ドロがいないかと江田家をパトロールしに行ったのだが、なかなかあの日と同じ状況に遭遇することはなかった。


「敵は手練れということか」


 誰もいない江田家の玄関先を見上げ、俺は一人そう呟く。


父の影響で警察密着24時といったドキュメンタリー番組を見ることが多かったため、すっかりその気になり、あの男の物怖じしない手慣れた様子から、きっと別の場所でも同じ手口で犯行を繰り返す常習犯だと確信していたのだ。


 毎週来るとは思えないが、いつかまた来るに違いない。


今度からは同じ曜日の同じ時間にパトロールしようと決め、俺は次の金曜日を指折り数えた。






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