#5
亞奴田辰彦は両親が別居して以来殆ど独りの生活であった。引き取った父親はよくも悪くも仕事一徹で、家に帰ったことはめったにない。母親はというと、一体何があったかは当時幼かった亞奴田には記憶はないが、大変心病んでおり、面倒見させるのも危険な状態であった。
結局彼の世話をしたのは霜田という若い家政婦であった。安いお金で働いていたのだが、しかし、献身的な人であった。誠実に家の世話をし、亞奴田の事も気にかけたのだが、人見知りの彼は彼女を拒否した。常に部屋に引きこもっていたのだ。
そんな生い立ちの彼は、平静を保っていたが何か大きな欠損も感じていた。原因は分かってるが具体的にどういう欠損かは分からない。ただそれで人に迷惑をかけないようにしようと考えていた。むしろ人のためになろう、とすら考えた。動機は、心の隙間を埋めるためだけに過ぎないが。
その“人のためになる”はやがて“人のために存在する”になり、“人類の願いを叶える存在”とまで変質していった。お節介と言われたりした、その様々な経験を踏まえ、より巧妙な普遍的な人間になった分、思想はより過激化した。
そして、そうした考え方と現実のギャップに苦しんでいた時にある本を発見した。
「ジクフリント~古代の国~」
ジクフリントと呼ばれる過去の大帝国の歴史や神話などが書かれた事典であった。
最初つまらない歴史書だと思っていた。だが神話を見て亞奴田は惹かれた。序章である「創世の章~偉大な帝国ジクフリントができる前、世界はいかに作られたか~」にはこんな文が書かれていた。
“光の神は完璧な世界を想像した。それは完璧すぎて、なにも変化のない死んだも同然の世界であった。”
“光の神は、ヒトと呼ばれる生き物を選び出した。”
“ヒトの中に備わる魂の部屋に光の神の体の一部、すなわち光が入っていった。”
“こうしてヒトの魂は光の神と同質となり、すなわち創造と自発の精神が備わった。”
“光の神とヒトを全く同じにしてしまってはたちまち身体は崩れ、さらには世界の均衡が崩れてしまう。”
“ヒトのその創造の能力は全て肉体に封印された。肉で出来ることしかヒトは出来ない。こうしてヒトは、あくなき欲望と肉体との狭間に苦しむ事となった。”
そうか、元から人は神のごとき存在なのか。だが同時に人間という動物であるが故に、苦しいのか。亞奴田は思った。そこで動物に還れと論じる人がいるが、肉の本質がそれであっても、魂の本質はそれでない。全ての苦しみの根源。
彼は芸術や科学技術などのテクノロジーが全て、その本質に基づくものだと考えた。実現したい、具現したいけど、体ではできない願い、それを別の物体を介してどうにか具現させるそれが、artなのだと。
しかしながらこのまま苦しむだけなのか。解放の道はないのか。彼は「ジクフリント」の本を読み進めた。やがて、最終章にたどり着いた。その章の題は…
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「封印の鍵~その剣で、帝国ジクフリントは自ら滅びを招いてしまった~」
図書室で読んでいた相田はその題をまじまじと見た。亞奴田の借出カードから知ったのである。中身をきちんと読みたいところだったが、琉田を待たせては悪いので、本を持ってそそくさと出掛けた。日が落ちるのも早い。
学校の廊下を歩く相田はなるべく怪しい光、すなわち天使の光に出くわさないように注意した。しかし全くその兆候もない。ずいぶんと静かである。彼らはどこかにいったのだろうか。
昇降口にたどり着いた。これから校庭の倉庫に向かう。そこに琉田は待っている。相田は家に帰る気もなかった。なんだかんだ、それこそ天の広がる外を歩いたら天使に見つかりそうで怖かったのだ。
倉庫の扉を空けた。
誰もいなかった。
「あれ…琉田は…」
「琉田は今いない。」
男の声が聞こえた。見ると、ほんのり光が浮かんでいた。天使。
相田は逆上した。
「さらったのか!」
「落ち着いてよく聞いて、相田くん。」
その声には聞き覚えがあった。
「…伊綱さん…?」
「そうだ。」
「亞奴田の家に放火強盗した…?」
「よく聞け。それは違う。私は実はジクフリントの学者だ。ジクフリント知ってるだろう?その本を持ってるという事は。」
「…多少は…」
「まあ良い。とにかく私は信じられないものを見た。封印の鍵を振り回しながら自宅に帰る亞奴田をな。」
「あ。」
「だから私は取り戻そうと彼の家を襲ったのだ。あれがいかに危険かわかるだろう?」
「はい。」
「だが、誤算があった。奴は待ち伏せしてた。やってきた私の胸めがけて封印の鍵を刺した。
「天使になってもなお私は亞奴田と抵抗した。ボヤの原因はそれだよ。
「そして最悪な事態が。相田はかの帝国から拾ったのだろう、吸射鏡をかざしてきた。」
「吸射鏡?」
「帝国は天使の襲撃に対して反撃する武器を開発した。光を吸収する鏡だ。天使にとって光は命だ。だからそれをかざされると絶大な苦痛を味わう事になる。
「私はあまりにかざされすぎた…だから力は弱まってしまった。ごらん、姿なんて見えないだろう?」
確かに、ぼんやりしたひとだまのような光しか見えない。
「私は鏡を割って命からがら逃げ出した。亞奴田も深追いをしなかった。なにしろ私は見えにくくなったからな。
「だがものをつかむ力はかろうじて残されていた。この魂が現実から消え失せる前に、相田くん、手を開いて、受け取ってくれ…」
相田が手を開くと、その手のひらに布に包まれた何かが落ちた。
「これは…」
「その乱闘でてに入れた吸射鏡の破片だ。おっと、包みを開かないでくれ。私が早く消えてしまう。君に天使らを退治してほしい…」
「なぜ僕が…」
「光の神の、ご意志だよ…」
「え…」
「気にするな。とにかく何か役に立つ。相田くん、家に帰るな…奴らが待ち伏せしてる…」
「…はい…」
「君がその本を手にしたのは良かった…帝国も奴らと戦った…参考になるはずだ…私が翻訳したのだよ。」
「え?」
確かに、「翻訳:伊綱圭介」と書かれていた。
「あと…」
伊綱はもう息も絶え絶えになっていた。相田は耳を澄ます。
「あと…、琉田は…」
相田はごくりと唾を飲む。
琉田が!?
「琉田は…無事だ…」
そのまま、伊綱の光は消えていった。
「あ…」
その時倉庫の扉が開かれた。琉田が食糧を抱えて帰ってきたのだ。