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「猫の子と、無知にまどろみ井の少女」

作者: 瑠紗紅葉


 世界というのは、存外簡単に作れるものだ。

 材料はあれば良いに越したことはないが、なくてもできなくはない。創造主の条件は、人ならば十分だろう。

 あとは、目が覚めたときにそれを我が子と認められるか、あるいはふざけた記号と見なすかどうかであって──



 古い本を開くと香る、あのバニラのような甘い匂いが、なゝの大好物だった。

 始業時刻の三十分前には登校し、職員室から鍵を拝借して図書室に一番のりをすることが、彼女の日課である。それが雨の日ならばなおさら着く時間は早くなり、時には、大人を含めた誰よりも先に来てしまうことさえあった。けれども物静かな性格と勤勉な態度には教師たちも信頼を寄せ、本来ならば生徒に知らせてはいけないはずの、学校への入り方を彼女だけは内緒で教えてもらっていたため、早く来すぎたところで特に困ることはなかった。

 その日も朝から落ち着いた雨が降り続く天候で、なゝは図書室の中でも一番の辺境といえる閲覧室に閉じ籠っていた。備え付けの椅子やテーブルなどには目もくれず、部屋を取り囲む本棚に背を預けて床板に座りこみ、ももの上にのせた大型本のページを、ぱらぱらと何の気なしに繰っている。雨の日の朝はこの場所を最も長くひとり占めにできるチャンスであり、あえて行儀の悪い読み方ができるのも、このときだけの特権だ。

 彼女はとりわけ本が好きなわけではなかった。並の小学生と同じように難しい単語が苦手で、実際に読むものとしてはお気に入りの児童文学や絵本に限られていた。あとは興味が沸けば、誰にも読まれなさそうな幻想小説にも手を出してみる程度だろうか。ノンフィクションやエッセイは嫌いだった。生身の人間を活字にまで求める意味が、彼女には理解できなかった。

 今、体育座りの形で立てた足に乗っている大型本は百科事典か何かのようだったが、もちろん中身に用事があったわけではない。ほんのりと黄ばんだ紙をめくるたびに感じる香りや、腹からももにかけてのしかかる他人の知識の重厚さに、安心を求めただけのことだ。開く本が大きければ大きいほど、なゝは自分がいっぱしの文学少女として、この図書室に溶けこんだような気になれるのだった。


 両親にぶたれた経験も、クラスメイトに目を付けられた覚えもない。友達と言い張れる人がそれなりにいて、優しかったり恐かったりする家族が揃っていて、何が言いたいのかというと、彼女は幸福だった。

 そして、その幸福を享受できない居心地の悪さから放浪した末が、この図書室通いの始まりでもあったのである。

 一人きりの部屋、一人だけの空間、そしてちっぽけな自身を四方から見下ろしてくる、詰めこまれ整頓された異世界への入り口たち。そういった状況を思うことが、彼女につかの間の特別を与えてくれた。


 ぱたん、とわざとらしい音を立てて、ざらざらしたハードカバーの背表紙を見る刹那、ひときわ広がる木製の甘さが、肩で切り揃えた髪をかすめる。ろくに見ていたわけでもないのにまるで読了したかのような達成感を覚えながら腰を上げたとき、校舎のどこかから雨音を真っ直ぐに貫いて響く、金管楽器の音色が聞こえた。

 四年生になってから半強制的に加入させられたブラスバンドクラブの知識を持ち出すまでもなく、それはトランペットの音に間違いなかった。ひょっとして今日は朝練でもあったのだろうかと焦りかけたなゝであったが、近々行事がある予定もなければそもそもクラブ自体さして熱心な集まりでもなく、何より先ほどから聞こえてくる一本調子なその音相から、すぐに向こうも一人きりでいるのだとわかって息を吐いた。

 重たい本を元の書架に戻し、背の低い棚の上に付けられた窓に手を触れる。最上階にあたる四階の図書室と音楽室とはL字型に設計された校舎のちょうど両端に位置していたため、閲覧室の窓からも、梅雨に煙る音楽室の窓を十分に臨むことができた。生憎人影は見当たらなかったが、その代わりと言わんばかりにまた一つ、元気の良い音が吹き抜けてその存在を主張する。

 きっと同じなのだ、となゝは思った。自分がこうして図書室を拠り所としているように、向こうにとってはあの音楽室こそがその人の城なのであろう。同士としてこちらからも何か働きかけができたらとは思うものの、本の城らしくページを翻してみたところでその些細な音は雨にかき消されてしまうだけだろうし、直接向こうに乗りこむなんてことはもってのほかだった。それは互いの世界をめちゃくちゃに踏みにじってしまうことを意味する。

 諦めて項垂れた先に見えたのは猫であった。一つ下の階から張り出した屋根の上で、縞模様の子猫がずぶ濡れの毛皮のすき間からじっとこちらを見上げているのだ。顎の下には首輪の赤い色が垣間見え、銀に光る飾りのようなものがぶら下がっている。

 可哀想に思う気持ちと、好奇心とで身をのり出したとき、


「あぶないよ」


 声に驚いて横を見れば、見覚えのない少女が閲覧室の出入り口で仁王立ちをしていた。

 せめて男の子だったら良かったのに、と未だに夢見心地な感想を秘めながら、恥じらいとともにそっと窓を閉める。


「さっき、音楽室にいた人でしょ」


「うん、もう授業始まるよ。行こ」


 そう言われては仕方がないと、なゝは素直に従って少女と一緒に図書室を出ていった。

 そうして今日も、変哲のない一日を送ってしまうのだろう。


 特別を望む人ほど、どんな不思議も平凡に帰結させてしまうものだ。


 たとえば、子猫はどうして三階の屋根に上れたのかとか。

 たとえば、閲覧室の窓はいつから開いていたのかだとか。

 たとえば、音楽室の少女はどこで演奏を止めたのかとか。

 そうしてなゝはなぜ、彼女が音楽室の城主と判ったのか。


 気にかけられない非常は通常へ昇華され、日常に消化される。

 見逃された序章はやがて色を落とし、活字へ還り、本に孵る。


 そんな当たり前しかないこの世界の、主人公として今も描写されていることを知ったら、少しは、気休めにもなるのだろうか。



──ああ、いけない。眠りながら無理に動かす手は現実的で困る。

 頬をつねっても折句を練っても、気は紛らせぬものらしい。私はかき集めた原稿をぐちゃぐちゃに丸め、屑籠に放り込んだ。黒い底でじわじわと広がっていく姿は、懸命に花開こうとする白い蕾を思わせる。


 あっけなく時間を止められた小世界、永遠に止む機会を失ってしまった、雨の檻の中から、少女の恨みがましい視線を感じたような気がした。





実際、布団に潜ってうとうとしながら書いたものでした。どこか愚痴っぽいので、一時は本当にボツにしようと思ったくらいです


折句とは俳句なんかで、ある言葉を頭文字に作るあいうえお作文的な技法ですね。ええ、タイトルが「ねむい」の折句なのです

とにかく、書いても読んでも眠くなるような、そんなお話を目指しました


それでは、こんなものに目を通してくださり誠にありがとうございました。ごめんなさい

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