酒面に映るは、天の銀盆
藤原不比等から‘輝夜姫’に献上されて、一月。私が初めて輝夜姫に使われたのは、それだけの時が過ぎてからだった。
小さなこの招く能力が無ければ、もっと時間がかかっていたのは想像に難くないが、まあ、私としては忘れられなければ、使われるならばいくらでも待とう。
運が良いのか悪いのか、これでもそれなりに長い年月を使われずに存在し続けたのだし、今さら数十年や数百年が待てないような短気でもない。
……酒の席に愚痴は付き物と言って良い。日頃の不満を酔いに乗せて、存分に発散すると良い。
生憎とここには私しかいないし、私は喋ることはしないが、聞いてやることくらいはできるぞ?
ぐいっ、と小さな杯に注がれた酒を一気に飲み干す。この酒器を見たときに何故か心引かれたので使ってみる事にしたのだけれど、正解だったと思っている。
老いず、死なないこの体は、多少の酒精で酔うことはないはずなのだけれど、どうしてか今、私は徳利半分程度の酒で酔っぱらい、あまつさえ普段から溜め込んでいる愚痴を誰ともなく口にしている。
それは主に月の私を追放した者達に対する不満だったり、断っているのに何度も何度もしつこく求婚してくる貴族に対するものだったりと様々。けれど、本当だったらこんな風に酒で酔っぱらっていたとしてもけして口にしないような言葉のはずだった。
………私ってもしかしたら、結構酒癖悪いのかもしれないわね?
「なんだっていいけどね」
そして私はまた、徳利から杯に酒を注いで、それを一気に飲み干した。
しばらくの間、毎晩のように輝夜姫は私たちを使って酒を飲むようになった。
輝夜姫は何故だか私の昔の所有者であった永琳とよく似た雰囲気を持っているし、酒の好みもそっくりだ。
そこで私は、輝夜姫が好きだと思われる古い古い酒の味を再現してみることにした。
‘酒を産む程度の能力’
これがこの数百年で私に新たに追加されていた能力だが、これはどうも私に一度でも注がれたことのある酒のみ産み出すことができるらしい。
今まで私に注がれた酒は千を越える。人も妖怪も神も酒の好みは様々だが、わざわざ飲むのならば美味い酒を飲みたいだろう。
……輝夜姫が言っていたが、これが私を使って飲む最後の酒だそうだ。
ならばせめて、少しでも美味いものを飲むが良いよ。
明日の満月の夜になれば月から迎えが来て、私は月に連れ戻されるだろう。
地上に追放し、しばらく生きてきて愛着が湧いた頃に無理矢理連れ戻す。私のような死なないものの精神を折ろうとするなら中々良い手だと感心するわね。むかつくけれど。
ぐいっ、と酒を飲む。お婆さんやお爺さんからは、はしたないからもう少し丁寧に、なんて言われたけれど、他の誰かに迷惑をかけるでもないしいいじゃない。
頭の固い月の住人に対する不満と愚痴が湧き上がってくる今でも、やっぱり酒は美味しい。
たった数ヵ月の付き合いだけれど、私はこの酒器が気に入ってしまった。私はそう思いながら、手に持った徳利と杯を指先で撫でる。
けれど、月の奴等はこの酒器を月に持っていく事をよしとしないだろう。唯一私を助けてくれそうな永琳も、月では酒嫌いで有名だった。
なら仕方がない。この酒器はこの場において行くしかないだろう。悔しいが、仕方がない。
私は最後に徳利残った酒を杯に注いで、一気に飲み干す。
「……じゃあね」
それだけ言って私は、月の追っ手から逃げ切るための用意を始めた。
しばらく後になって、永琳と私が迷いの竹林に永遠亭を建ててそこで暮らし、ずいぶんと時間が過ぎてからのこと。
「……そう言えばね、永琳。私、都にいた頃に不思議な酒器を持っていたのよ」
それを聞いた永琳は、薬を作る手をぴたりと止めて私の話を聞き始めた。酒嫌いで有名で、どんな酒を飲んでも不機嫌そうな顔しかしないと言われていた永琳には珍しいと思ったけれど、私は構わず話を続ける。
「見た目は真っ白で飾り気がないつまんない徳利と杯なんだけど、なんだか妙に引かれてね? それでお酒を飲んでみたら嵌まっちゃってさ」
「……姫様」
「それで……永琳? どうしたのかしら?」
私の話を聞いていた永琳の額には、何でかは知らないけど青筋が浮き上がっていた。
「……それは、私が月に行く前に置いていった私物です。私が酒嫌いだと言われていた訳は、あの酒器以外で飲んだ酒が口に合わないからです」
このあと、私はその酒器をあの時の場所に置いてきたと白状させられて、永琳と弾幕ごっこをさせられた。
永琳ってば手加減してくれないの……。