トイレットペーパー協奏曲 ~児童館のせんせー
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
昼の来館者が途切れた、少しだけ静かな時間だった。
匠はスマホの画面を見ながら眉をひそめる。
『ホルムズ海峡封鎖の影響で トイレットペーパー不足の可能性』
『本当に 店から消えていた』
『もう買い占めが始まってる』
『カートに トイレットペーパー積み上げて買ってる おばちゃん見た』
似たような投稿が次々と流れてくる。最初は一つ二つだった。けれど見ているうちに、これはまずいんじゃないかって思う。
トイレットペーパーがもし、なくなったら、児童館としても学童クラブとしても子供達を預かれない。トイレ使用禁止というわけにも、家からトイレットペーパーを持ってきてという訳にもいかない。
「トイレットペーパー、俺、すぐに買ってきましょうか。SNSでもホルムズ海峡封鎖の影響でなくなるかもしれないって話が広がってますし」
事務室の机で書類を確認していた京子せんせーと悠子せんせーが顔を上げる。
「実際に大量に買ってる人を見たって書き込みも結構ありますし」
悠子せんせーは少し考えるように首を傾げた。
「じゃあ、買ってきてもらおうかな」
「そうね」
京子せんせーも頷く。
「本当になくなると困るし」
「じゃあ、俺、子供達が学校から帰ってくる前に、ちょっと買い物に行ってきます」
児童館は家庭とは違う。子供が毎日100人近く利用する場所だ。もし本当に不足したら困る。
だから提案したのだ。
だが・・・。
「・・・まだ、しばらく分の在庫ありますよねぇ」
事務室の隅から、間延びした声が聞こえた。森もせんせーだった。書類から目を離さないまま続ける。
「予算の余裕があれば、買っておいてもいいくらいだとは思いますけどぉ」
悠子せんせーが振り返る。
「なくなったら、どうするの? 買えなくなってから、あの時買っておけばって言っても遅いのよ」
その問いに、森もせんせーは少しだけ首を傾げた。
「ナフサ不足から包装ができなくて出荷停止ぃ・・・なら、わかりますけどぉ」
匠は一瞬考える。
ナフサ。石油化学製品の原料。確かプラスチックとかの。それもニュースで見た。
「でもぉ」
森もっちゃんは淡々と続ける。
「包装ナイロンがなくなれば、紙にでも包んで売りますよぉ」
「・・・」
京子せんせーが黙る。悠子せんせーも黙る。
匠も何も言えなかった。なんだろう。森もせんせーの言いたい事は、何となくわかった。
トイレットペーパーそのものが作れなくなる話ではない。だから慌てて買い占める理由にはならない、という事だろう。
理屈としては納得できる。できるのだが・・・匠はスマホに並んだ不安げな投稿を思い出した。あれだけ多くの人が騒いでいるのに、本当に気にしなくていいのだろうか。
自分の判断の方が間違っている気もして、妙に落ち着かなかった。
SNSの情報を見た時には、それなりに切迫感があった。
なくなるかもしれない。
買っておいた方がいいかもしれない。
そう思った。
でも森もせんせーの話を聞いていると、急に別の疑問が浮かんでくる。本当に作れなくなるのか。本当に売られなくなるのか。
ただ誰かが不安になって買っているだけじゃないのか。
そして何より、森もせんせーは、こういう時は妙に外さない。
普段は「今日はどこに食べに行こうかなぁ~」と昼休憩の時に出て行き、スマホで動画を見ていると思えば、流行りのアニメや芸能人。ただ、こういう話になると何故か理論整然、冷静になる。
匠は嫌な予感がした。いや違う。何だか、ものすごく聞き覚えのある流れだった。
森もせんせーがようやく顔を上げる。
「・・・あの時と同じでしょ」
京子は、その言葉に数年前を思い出していた。
2020年。
新型コロナウイルスという言葉が、毎日ニュースから流れていた頃。朝の情報番組でも昼のワイドショーでも、夜の報道番組でも・・・話題はほぼ感染症一色。
児童館の空気も、どこか落ち着かなかった。
京子が出勤して最初に確認するのは、その日の感染者数。近隣地域の感染の広がり具合。自治体から新しい通知は来ていないか。学校はどうなるのか。
今思い返しても、あの時期はどこか現実感がなかった。
学校は休校になった。
感染拡大防止のためだと説明された。
子供達を集めないためだ。人との接触を減らすためだ。テレビでも専門家がそう言っていた。行政もそう言っていた。
京子も理解していた。
理解していたからこそ、次に届いた通知を見た時、しばらく言葉が出なかった。
学童保育は開館を継続する事。
朝から受け入れを行う事。
「・・・学校は閉めるのに?」
思わず漏れたひとり言に答える者はいなかった。もちろん理屈はわかる。
働かなければならない保護者がいる。医療従事者もいる。介護職もいる。物流だって、警察だって、電気だって、バスだって、・・・保護者はありとあらゆるところで働いている。
社会を止められない人達がいる。
だから子供の居場所は必要だ。
それはわかる。
わかるのだ。
だが、学校より遥かに狭い児童館に、100人近い子供を集めて、本当に感染対策になるのだろうか。
誰も答えてくれなかった。
朝七時過ぎ。まだ肌寒い空気の中、次々と子供達がやってくる。
「おはようございます!」
「京子せんせー!」
「今日何するのー!」
元気な声が玄関に響く。子供達に罪はない。
学校が休みになった理由も、感染症の怖さも、よくわからないまま来ている子も多かった。マスクをきちんとつけなさいと言っても、いつの間にか外したり、鼻まで覆っていなかったり。
だから余計につらい。きつい。
来るなとは言えない。来てほしくないとも言えない。近隣の児童館でははっきり、なるべく休んでほしいと出した所もある。
この児童館・児童クラブは、そこまでは出さなかった。
出せなかったとも言える。
でも密集は避けたい。
矛盾ばかりだった。
保護者向けの文書も、何度も何度も作った。
『ご家庭で過ごす事が可能な場合は、ご利用をお控えください』
『感染拡大防止に ご協力をお願いいたします』
柔らかい言葉を選び、角が立たないように書き、お願いを続けた。
だが現実は変わらない。
来る子は来る。
当然だ。
仕事を休めない家庭ばかりだ。リモートワークなんてできるなら、最初から学童クラブに子供を預けていない。祖父母に預けられない家庭もある。家庭ごとに事情が違う。
だから責められない。
誰も悪くない。
誰も悪くないのに。
部屋はどんどん狭くなっていく。
長机には子供達が並び、床には遊ぶ子供達が座り込み、本棚の前にも、工作机の周りにも、気づけば子供達が密集している。
距離を取ってと言った数分後には、また集まっている。子供だから当たり前だ。友達がいたら近づく。話す。笑う。一緒に遊ぶ。
それを止め続けるのが仕事になっていた。
「少し離れてね」
「こっちの机使おうか」
「順番に使おうね」
「ごはん中は、しゃべらないで」
一日に何十回。いや、何百回言ったかわからない。
窓は全部、少しずつ隙間を開けていた。
まだ寒い時期だった。子供達から寒いと文句も出る。それでも閉められなかった。
消毒液は減っていく。
マスクも足りない。つけていたはずが、どこかにいき、代わりのマスクを渡す。
何らかの通知は毎日のように来る。現場の不安も増えていく。
職員も感染して、2週間の休みに突入。残った職員で100人近くの子供達を見ていた時期もあった。ゴールの見えないマラソンを走っている気分だった。
それなのに、朝になると100人近い子供達がやってくる。
学校より狭い建物に。
学校より少ない職員で。
学校より密集した状態で。
京子は時々、本気で思った。いったい何を守ろうとしているのだろう。
感染を防ぎたいのか。子供の居場所を守りたいのか。保護者の生活を支えたいのか。
全部なのだろう。
全部だから難しい。
正解がない。
誰も経験した事がない。
それでも開館時間は来る。子供達は来る。職員は出勤する。
だから京子は毎朝鍵を開けた。不安も。疑問も。答えの出ない怒りも。全部飲み込んで。
「おはよう」
いつも通りの声で、子供達を迎え続けた。
スーパーではマスクが消えた。手作りマスクの子も増えた。
そんな時だ。
「京子さん」
悠子せんせがスマホを見ながら言った。
「トイレットペーパー買えなくなるみたいですよ」
子供達が帰った後、外はもう暗い。書類仕事はその時間にしかもう、できなかった。残業。今日は何時に帰れるのだろうか。でも、出る残業代は雀の涙・・・。そう思っていた時だった。
「どういう事?」
「マスクが売り切れて。同じ原料のトイレットペーパーが作れなくなるって」
「ああ・・・」
京子は小さく頷く。なるほど、理屈はよくわからないが、そう言われるとそんな気もする。
マスクは実際に店頭から消えていた。なら、次はトイレットペーパーでも不思議ではない。
今思えば単純だった。だが当時は、世の中全体が不安でできていた。だから不安な話ほど信じやすい。
「それは大変ね」
京子は立ち上がった。
「すぐに買って来ないと」
児童館の消耗品は切らせない。トイレットペーパーなど、その最たるものだ。なくなってからでは遅い。
「森本せんせ、留守番お願いね。何なら、書類が終わったら帰ってもいいわ。児童館の鍵も持って出るし。まだあそこのスーパーなら開いてるはずだから」
そう言いながら、机の引き出しに入れてある車の鍵へ手を伸ばす。
悠子せんせも立ち上がった。
「私も行きます」
2人で買い出しへ向かおうとした、その時だった。
「違いますよぉ」
背後から、間延びした声が聞こえた。
二人同時に振り返る。
森本せんせは相変わらず椅子に座ったまま、顔も上げず書類を見ている。
「何が?」
悠子せんせが眉をひそめる。
森本せんせはため息混じり。
「マスクと違って、トイレットペーパーの原料ってほぼ国産です」
「・・・」
京子は思わず動きを止めた。
「中国で大量生産されてるマスクの原料に、どうしてなるんですかぁ?」
しばしの沈黙。
「日本から輸出してます?」
「・・・」
言われてみれば、その通りだった。京子は何も言えない。言葉が喉の奥で止まった。というか、そもそも自分で何一つ確認していなかった。
誰かが言っていた。ネットで見た。それだけで信じた。
ついさっきまで「急がなければ」と本気で思っていた自分が、急に恥ずかしくなる。不安な話を聞いて、不安なまま動こうとしていた。冷静に考えれば確かめるべき事は幾らでもあったのに、それをしていない。管理職としてどうなのだろう、と少しだけ反省する。
いや、少しではないかもしれない。児童館の運営を預かる立場なのに、根拠よりも空気に流されかけていた。
森本せんせの言葉が正しいかどうか以前に、その事実が痛烈に来た。
しかし悠子せんせはまだ納得していなかった。
「でも実際、大量に買い出ししてる人がいて、トイレットペーパーが棚からなくなってるって!」
悠子せんせは少し身を乗り出す。
「どう説明するつもりっ」
森本せんせは再びため息をついた。今度は少しだけ長めだった。
「それ、私達ですよぉ」
「・・・は?」
京子と悠子せんせの声が綺麗に重なる。
森本せんせは、書類が一区切りついたのか、ようやく顔を上げた。
「大型のカートにトイレットペーパー山盛り積み上げてぇ、下の段にも詰め込んで買い物してる『おばちゃん』を見たっていうのでしょ~」
「・・・」
「私達です」
悠子せんせの勢いが止まる。
「春休み前の買い出しですよぉ」
森本せんせは淡々と続ける。
「毎日100人くらいが利用して、10日から2週間分」
森本せんせは指を折るような仕草をしながら言った。
「春休み中は朝7時8時から、夜も7時8時まで開いてるんですからぁ」
悠子せんせは反論しようとして口を開きかけたが、言葉が出てこない。
京子も腕を組んだまま黙っていた。
「先に買っておく必要がありますよねぇ。春休みが始まったら、買いに行く暇なんてないですからぁ。私達、給与安いんで、シフト組める程の人員は来ないですし~。10時間勤務した後に、買い物残業なんて嫌でしょ~」
森本せんせは当然の事を確認するように肩をすくめた。
京子は口を閉じたまま聞いていた。確かにその通りだった。学童クラブも児童館も、子供を預かる施設は長期休暇前になると大量の消耗品を確保する。
トイレットペーパー。ティッシュペーパー。ペーパータオル。ウエットティッシュ。
泡ハンドソープ。消毒用アルコール。除菌スプレー。
ゴミ袋。
絆創膏。
2Lのお茶ペットボトル。おやつ。
折り紙。コピー用紙。鉛筆。色鉛筆。消しゴム。・・・まだまだある。
それが100人分。春休み2週間の、朝から夜までの時間に耐えられる量。
全部まとめて買う。カートいっぱいに積む。
当然だ。
だが、事情を知らない人が見れば、買い占めにしか見えない。
「全国津々浦々の学童の先生達が」
森本は静かに締めくくる。
「各地域でトイレットペーパー買い出ししたでしょうねぇ」
「・・・」
「・・・」
京子も。
悠子せんせも。
黙るしかなかった。頭の中で、さっきまでの危機感が音を立ててしぼんでいく。
同時に、別の感情が込み上げてきた。
管理職が、施設運営をしている人間が、根拠も確かめずに車の鍵を掴んでいた。
森本せんせはまた何事もなかったように書類へ視線を戻している。
その姿を見ながら京子は思う。普段のこの中年女性は、ぼおっとしているように見える事もあれば、話を聞いているのかいないのか分からず、どうにも頼りなく見えてしまう。
だが時々。
こういう妙なところだけは、驚くほど冷静だった。
・・・その時の事を。
京子は今でもはっきり覚えている。
結局、その後しばらくして、本当に店頭からトイレットペーパーは消えた。
だが森本せんせの言った通りだった。
結局、作れなくなったわけではない。工場が止まったわけでもない。原料がなくなったわけでもない。
ただ、みんなが「なくなる」と思って買った。その結果、本当に棚からなくなった。
原因と結果が逆転しただけだった。なくなるから買ったのではない。買ったからなくなったのだ。
後になってニュースでも説明されていた。生産は続いている。在庫もある。
だが、一度に運べる量には限界がある。トラックの台数。配送できる量。決まっている。急に増やせるわけではない。普段1ケしか買わない人達が全員2・3ケ買えば、補充が追いつかなくなるのは当然だった。
あの時、京子は嫌というほど思い知った。人は事実で動くとは限らない。不安と噂で動く。
そして不安は、人から人へ驚くほど速く伝染する。感染症より速いんじゃないかと思うくらいに。
気づけば、事務室の窓の外には、子供達の声が聞こえ始めていた。
「・・・」
京子は小さく息を吐く。
目の前にはスマホを握った匠せんせ。少し不安そうな顔。
そして隣には悠子せんせ。あの頃とほとんど同じ表情をしている。
数年経っても変わらないわね。京子は内心で苦笑した。いや、自分も含めて、かもしれない。人間は思った以上に学習しない。不安になるし。焦るし。流される。
だからこそ、一人くらいはブレーキ役が必要になる。
京子は視線を森本せんせへ向けた。当の本人は書類に何かを書き込んでいる。相変わらず緊張感がない。本当に聞いているのか怪しい顔をしている。
だが多分、この場で一番冷静なのはあの人だ。
「森本せんせ」
京子は声をかける。
「仮にホルムズ海峡の影響が出るとしたら?」
森本せんせはペンを止める。
「物流費ですかねぇ。長引けば、ナフサの影響も出てくると思いますよぉ」
即答だった。
「紙そのものじゃなくて?」
「そっちの方が先だと思いますねぇ」
森本せんせは首を傾げる。
「他は知りませんが。トイレットペーパーに関しては、なくなるというより、高くなる方でしょうねぇ」
「・・・」
匠せんせが何か言いたそうに口を動かすが、結局黙る。
京子も頷いた。なるほど、そちらの方がよほど現実的だ。極端な話、トイレットペーパーは生活必需品だ。多少高くなっても売る。売れる。だから作る。
企業もそこまで馬鹿ではない。
事務室の空気が少しだけ落ち着く。
匠せんせも先ほどより表情が落ち着いているように見えた。
それを見て、京子は思う。多分、今回も同じだ。
なくなるのではない。誰かが「なくなる」と思う。すると別の誰かも不安になる。
そして棚が空になる。時期もほぼ同じだ。
春休み前。
学童クラブや児童館にとって、1年で最も慌ただしい時期。卒業する子達がいる一方で、大量に新1年生が入所してくる、一番子供の数が多い時だ。100人を超える事だってある。
その分、当然消耗品も大量に必要になる。
あの時と同じように。
ただ、もし本当に不足する可能性があるなら、施設として備える事自体は間違いではない。
「匠せんせ」
「はい」
「今日は買いに行かなくていいわ」
京子は言った。
「でも次の消耗品発注の時に、予算の範囲で少し多めに頼んでおきましょう。そのくらいなら問題ないですし」
匠がほっとしたように頷く。
「わかりました」
森本せんせも小さく頷いた。
「そのくらいが妥当ですねぇ」
京子は苦笑する。
あの時。
車の鍵を握ってスーパーへ飛び出そうとしていた自分が聞いたら、少しは成長したと言えるだろうか。
そんな事を考えながら、京子は再び書類へ視線を落とした。




