表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

影に血を注ぐ者

夜の底に、金属が擦れる硬い音が響いた。


古い倉庫の奥、壁際には煤と錆に塗れた鉄輪が無数に打ち込まれている。

それらに縄で縛りつけられた男が、一人。


王都からの使節。


高価な絹の衣服は破れ、顔は青ざめ、口元から唇を噛んだ血が垂れている。


「……っ……離せ……俺は王都の使節だぞ……」


第一幹部はそれを聞いて、小さく笑った。


「知っている。だからこうして時間をかけているんだ」


手にした小刀を、男の指先へゆっくりとあてがう。


「影の御方を恐れぬ者は、痛みを知らぬだけだ。……だったら、教えてやろう」


「や、やめ――」


音は小さかった。

指先の爪が剥がれ、血が滴る。


その瞬間、男の口からは悲鳴とも呼べない掠れた音が洩れ、倉庫中に反響した。


「影の御方の名を、舐めるな」


第一幹部はそれだけ呟き、小刀の刃を次の爪にそっと当てた。


その瞳は静かで、そこにあるのは激情でも憎悪でもなかった。


ただ――

影に拾われた自分を裏切らないための、揺るがぬ忠誠だけ。


倉庫の入口には第三幹部、魔科学者が立っていた。


白い外套の端を持ち上げ、指先に黒い鉱液を垂らしている。


「王都はこの街を潰そうとしている。それは事実……だが、その資金源とルートをもっと詳しく吐かせて」


第一幹部は無言で頷くと、再び小刀を握り直した。


悲鳴と、血の匂いが倉庫を満たす。


魔科学者はその様子を目を細めて眺めていた。


「影は人を狂わせる。でも、だからこそ面白い」


冷たい声が、夜気に溶けていった。


屋根の上。


俺はまた夜の街を見下ろしていた。


遠くの倉庫から聞こえる断続的な悲鳴。

それが妙に規則的に響いて、まるで夜の儀式のようだった。


(……影は血を呼ぶ)


昔、自分でそんな言葉を吐いた記憶がある。


その時はただの詩のつもりだった。


だが今は違う。

この街の闇は、本当に血を啜り、痛みを糧にして息をしている。


「御方……」


いつの間にか、暗殺姫が隣に立っていた。


いつも通りだ。

俺の影に潜るのが、この娘は異常に上手い。


「今日は……御方に、見てほしいものがあるんです」


「……なんだ?」


暗殺姫は小さく微笑み、自分の胸元に手を差し入れた。


そして次の瞬間――

細い短剣の刃を、白い肌に突き立てた。


「……っ」


鋭い吐息。


胸元に刻まれた俺の黒印章の上を、浅く切り裂く。

血が溢れ、刻印が赤く染まった。


「御方の印章を……もっと深く刻みたくて」


「……馬鹿なことをするな」


自然と声が低くなる。


だが暗殺姫は怯えもせず、むしろ嬉しそうに細い息を吐いた。


「痛い……でも、御方の印章に私の血が入るみたいで……ずっと、嬉しいんです」


再び刃を印章に押し当てようとするその手を、俺は思わず掴んだ。


「……やめろ」


「御方……」


暗殺姫は震える瞳でこちらを見つめ、涙を滲ませた。


「御方が、私の血を嫌うのですか?」


「……違う」


俺は小さく吐息をつき、彼女の手から短剣を奪い取る。


そのまま指先で、彼女の血で濡れた印章にそっと触れた。


「あ……っ」


暗殺姫の体が小さく跳ねた。


「もう十分だ。お前の影は、誰よりも深い」


そう言うと、暗殺姫は顔を真っ赤にしながら泣き笑いを浮かべた。


「……御方……御方に、そう言っていただけるなら……」


血の混じる涙が、夜風に冷たく光った。


夜が深まるにつれ、倉庫の悲鳴は次第に細く、やがて途絶えた。


それを合図に、魔科学者が屋根まで上ってきた。


「御方。王都の資金源、かなり大きな貴族派閥が絡んでいました」


「……それで?」


「次は王都です。私が動きます。――この街で試した影の血の技術を、あちらでも拡散させましょう」


魔科学者の瞳は冷たい光を湛えていた。


「影は拡がるものです。いずれ御方の影は、この国全土を覆うでしょう」


(……勝手に言ってろ)


そう思いながら、俺は黙って夜の街を見下ろした。


商会の明かりがまた一つ消える。

影は、そこに新たに根を張る。


血と涙と痛みを糧に、どこまでも。


(――影は踏まれるものだ)


そう何度も自分に言い聞かせた。


そうじゃなければ、この黒い甘さに、俺自身が呑まれてしまいそうだったから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ