血は影の糧となる
夜の街は、今日もまた血の匂いに包まれていた。
路地裏の石畳には新しい赤黒い染みが散在し、そこから這い出たように濁った影が長く伸びている。
俺は屋根の上をゆっくりと歩きながら、その下で蠢く人々を見下ろしていた。
(……くだらない)
商会の連中だ。
影の印章を得たある商家が急に取引を優先され、護衛の傭兵団からも妙に丁重に扱われ始めた。
それを見た他の商家は慌てて影の印章を欲しがり、互いに競い合うように献金を積み、夜な夜な第一幹部に会いに行く。
だが当然、全ての商会が同じだけの庇護を得られるわけではない。
金と地位の序列に遅れた連中は、次第に焦り始めた。
結果、街では連日、影の名を口にする商人同士の暗殺や破壊工作が続発している。
自分たちで勝手に影の御方の名を盾に、勝手に血を流しているのだ。
(――俺は何も命じていない)
ただそこに在るだけ。
影は誰かに命令などしない。
それなのに、この街はもう俺の影の支配下にある。
滑稽で、吐き気がするほど甘美な光景だった。
「御方」
声が落ちてきた。
気づけば暗殺姫が隣にいた。
黒い短髪が夜気に濡れ、その瞳は相変わらず深い渇きを孕んでいる。
「……また血の匂いだな」
「はい。今日も商会同士が互いに刺客を放っては潰し合っています」
暗殺姫は楽しそうに唇を舐めた。
「御方のおかげです。影が街の光をすっかり消してくれた」
「……別にお前たちに命じた覚えはない」
「でも、影は人の心を自然に黒くするものです」
言いながら、暗殺姫はそっと俺の外套に指を這わせた。
「御方の影は優しいから……もっともっと深くなってほしい」
「……どういう意味だ?」
「もっと血を流したいんです。御方の影がもっと黒くなるように」
その目が、哀願する子供のようでいて、どこか底なしの渇望を湛えていた。
俺は小さく息を吐く。
(……やはり、壊れてる)
「勝手にしろ。ただし――」
「影に恥じない?」
暗殺姫はふふっと笑い、短剣の柄に触れた。
「大丈夫です。御方の影に恥じるような血は流しません」
その声は妙に楽しげで、ぞっとするほど綺麗だった。
石畳を歩くうち、古い倉庫の裏に出た。
そこでは第一幹部が、地面に縄で縛られた商会の密偵を前に座っていた。
火桶の中で真っ赤に灼けた鉄具が小さく唸っている。
「……まだ話すつもりはないか?」
第一幹部の声は低く、淡々としていた。
密偵は顔面を引き攣らせ、唇を食いしばっている。
だがその脚は小刻みに震え、目には涙が滲んでいた。
第一幹部はゆっくりと鉄具を取り出し、密偵の足の甲に押し当てた。
「――っぁぁあああああああっ!」
夜気を裂く悲鳴。
肉が焦げ、血が滲み、鼻を突く匂いが倉庫の裏を満たした。
それでも幹部は顔色一つ変えず、ただ静かに見下ろす。
「御方の影は痛みだ。お前がそれを拒むなら、せめてこの痛みで証にしろ」
泣き喚く密偵の目から、最後の抵抗が剥がれ落ちた。
「い、言うっ……言います……!王都の、調整院から……影の御方を潰すための資金が、近々……!」
「……ふむ」
第一幹部は軽く顎を引いた。
その背後には、いつの間にか第三幹部――魔科学者が立っていた。
白衣のような長い外套に、黒革の手袋を嵌めた痩身の女。
「また面白い情報を拾ってきてくれましたね」
「御方の影を守るためだ」
魔科学者は冷たい笑みを浮かべ、地面に泣き伏した密偵の顔を無遠慮に掴んだ。
「……その資金の流れ、細かく話してもらいましょう。影の御方に歯向かう者を、根こそぎ潰すために」
指先から淡い光が滲み、密偵の目がぐるりと白濁した。
精神を直接侵す魔科学の技だ。
(……また、話が勝手に大きくなるな)
俺は黙って二人を見下ろした。
第一幹部は俺の存在に気づくと、嬉しそうに少しだけ目を細めた。
そして血に塗れた右手を胸に当て、無言で頭を下げる。
それだけで、どこか満たされた顔をした。
(……こいつらは本当に、俺の影に人生を賭けてるんだな)
そう思うと、冷たいものが胸を滑り落ちていく。
影はただそこに在るだけだ。
なのに人は勝手に怯え、崇め、狂っていく。
(俺は……いつまでこの影の御方を演じるつもりなんだろうな)
屋根の上の冷気が、妙に心地よかった。
夜が終わる頃。
暗殺姫がそっと背後から寄り添ってきた。
「御方……もっと血を流していいですか?」
「……好きにしろ」
「御方のためにだけ……御方の影をもっと濃く染めるために……」
頬を俺の肩に埋め、細い指で胸元の印章を撫でる。
血で汚れたその指が冷たく、そしてひどく甘かった。
(血は影の糧となる)
誰が言い出した言葉だったか。
多分、俺自身だ。
夜の底で、俺は静かに目を閉じた。
そして、また新しい血の匂いが街に広がっていくのを、遠くで感じていた。