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影に刻む悦び

夜の商会通りは、昼よりも賑わっていた。


いつもなら、ランタンの灯が遠慮がちに揺れ、数件の酒場が遅くまで客を抱えるだけの通りだ。

しかし今夜は違った。


そこには、仮面をつけた商人や、ひそかに抜け出してきた貴族の若者たちが列を成していた。


――第一幹部が拷問を執り行う家の前に。


街の噂はここ数日のうちに完全に狂い始めていた。


影の御方の印章を受けた者は、商売が繁盛し、賊に狙われず、病にも縁遠くなる。


その奇怪な迷信にすがるように、街の権力者たちが自ら“影の痛み”を求めて並んでいるのだ。


(……馬鹿馬鹿しい)


屋根の上からそれを眺め、俺は小さく息を吐いた。


痛みが影になる。

影が御方の証になる。


俺が吐いた厨二の詩句が、勝手に変質して、街の中で教義のように語られ始めている。


(これじゃあ、笑えない道化だ)


「御方……」


声がした。


振り向くと、暗殺姫がいつの間にか背後に立っていた。


その頬は上気し、胸は浅く上下している。

そして――瞳が赤い。


「見てください……あの愚かな人たち」


視線の先、屋敷の中庭に、第一幹部が商人の腕を縄で括りつけ、火箸を赤く染め上げていた。


「……あの商人は、自分から痛みを望みました。影の御方に忠誠を示すために」


そして商人は、焼けた鉄具が腕に押し当てられた瞬間、悲鳴と共に歓喜の涙を溢した。


「……ッああ……これで……御方の影に……!」


屋敷の壁に並ぶ商人や貴族たちは、その様子を息を呑んで見守り、次は自分だとばかりに胸を張る。


暗殺姫はその光景を眺めながら、そっと俺の袖を掴んだ。


「御方……他の誰も……御方の影を踏むべきではないのに」


「……またそれか」


俺は視線を外した。


「影は踏まれるものだ。最初からそうだ」


「でも……私は、御方の影を一番深く踏みたい。私だけに……」


暗殺姫の声が震え、次の瞬間、俺の胸に顔を埋めてきた。


外套越しに伝わる温度が、やけに生々しい。


「御方……御方の印章をもっとください」


「……俺はお前のものじゃない」


「わかっています……でも、影は……私の心を殺さずに済む唯一のものなんです」


そう言って顔を上げた暗殺姫の頬には、涙が流れていた。


けれどその目は、泣き顔で笑っていた。


「御方の影を踏むたびに……私の中の闇が、ちゃんと形になって、苦しくなくなるんです」


(……この娘は本当に壊れてる)


だが、それが嫌いじゃなかった。


俺は黙って腰の刻印具を外した。


火打石で軽く熱すると、暗殺姫は小さく声を上げ、震えながら胸元の布を裂く。


「もっと……御方の印をください」


(……何やってるんだ、俺は)


頭のどこかが冷たく突き放すように囁く。


だが手は止まらなかった。


刻印具をそっと胸元に押し当てると、彼女は喉を鳴らして身をよじった。


「――あ、ぁ……っ」


焦げた匂いと共に黒い紋章が増えていく。


「御方……これで……また私だけの影になれますか……?」


「……知らん」


刻印具を収めると、暗殺姫は笑った。


その笑顔は、俺を見つめるたびにどこまでも沈んでいくようで――

恐ろしく、そして少しだけ美しかった。


「御方……また夜に会いに来ますね」


影のように消えた暗殺姫を見送りながら、俺は屋根の端に座り込んだ。


(……なにが御方だ)


掌を見つめる。


ただの手だ。

血も涙も流す、汚れた人間の手。


なのに、街はそれを神格化し、影の名の下に血を流し、痛みを競い合っている。


(これが……俺の望んだ陰の支配者か?)


小さく嗤う。


それは滑稽で、虚しくて、そして――ひどく甘い感触がした。


ふと、下の路地で子供たちの声がした。


「影の御方様、ありがとう!俺の父ちゃん、御方の印章もらってから盗賊に襲われなくなったんだ!」


「影の御方様は俺たちの神様なんだよ!」


無邪気な声が、胸を突く。


(……子供まで巻き込む気は、なかったのに)


でも、もう止まらなかった。


影は踏まれてこそ影になる。

それを誰よりも俺自身が知っていたから。


夜がまた一層深くなる。

屋根の上で外套を抱きしめ、俺は静かに目を閉じた。


その中で、黒い夢がまた一つ――芽吹いていくのを感じながら。

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