影の名の下に裂かれるもの
夜はすっかり深く沈み、街の上を渡る風が冷たく肌を刺す。
石畳にはところどころ黒い染みがあった。
血の色がすっかり褪せてしまった古い跡もあれば、まだ生温いものもある。
この街では血が乾くのに、それほど時間はかからない。
俺は屋根の端に腰を下ろし、下の広場を見下ろしていた。
そこでは――第一幹部が仕事をしていた。
ごつい体躯のその男は、商会の小役人を縄で縛り上げ、広場の中心に置かれた粗末な木台の上へ座らせている。
その顔は青ざめ、脂汗でべっとりと濡れていた。
足下には失禁した跡が広がっている。
「……頼む、頼む……俺は影の御方に逆らうつもりは……!」
「静かに」
第一幹部はごく短く言っただけで、その声は子供をあやすように優しかった。
だが次の瞬間、幹部はゆっくりと長い鉄具を火桶から引き抜いた。
真っ赤に灼けた鉄の先が、夜気を裂いて唸る。
「……俺はな」
低く掠れた声が広場に落ちる。
「御方に拾われた夜から……痛みの意味を考えるようになった」
商会の小役人は何度も首を横に振り、涙を零した。
「い、いやだ、いやだ!誰か!助け――」
助けなど来るはずもなかった。
周囲の建物の窓には、暗い影がびっしりと張りついていた。
影の印章を胸に刻んだ者たちが、息を潜め、目を光らせている。
第一幹部はそっと鉄具を商会の男の腹に当てた。
「……痛みはな」
音がした。
肉が焼け、弾ける音。
同時に悲鳴が夜空を裂いた。
「痛みは、影だ。光を浴びたときに初めて、自分の形を知る……だから――」
幹部の分厚い手が、男の顎を持ち上げる。
「お前にも、ちゃんと影を与えてやる」
悲鳴はやがて涸れ、か細い呻きになった。
その様を見つめている者がいた。
暗殺姫だ。
広場の端の細い柱に背を預け、血の匂いを甘く吸い込むようにして目を閉じている。
「……御方の影は、なんて優しいのでしょう」
(優しい?)
俺は屋根の上からその姿を見下ろし、内心で自嘲した。
拷問は残酷だ。
恐怖で人を縛り、心を砕く。
それを優しいと感じるこの暗殺姫の壊れ具合に、少し胸が疼いた。
(……けれど、影に寄り添えるのは、そういう奴だけかもしれないな)
第一幹部は焼き尽くした男の胸に、ゆっくりと俺の黒印章を押し当てた。
煙が立ち上り、浅黒い肌に焦げた紋章が浮かぶ。
「影の御方に逆らう者は……こうなる」
幹部はそれだけ言い残し、木台から引きずり下ろした死体を路地へ投げ捨てた。
それを見届けた市民たちは――
誰も声を上げなかった。
ただ頭を垂れ、額を地に擦りつける。
影の御方に忠誠を誓うために。
(……もう、止められない)
俺は屋根の上で、冷たい風に吹かれながら自分の影を見た。
細く長い影は、石畳に爪を立てるように伸びていた。
(いや、最初から止める気なんて――なかったんじゃないのか?)
自分自身に問いかける。
すると、影が微かに揺れたように見えた。
「御方」
いつの間にか、暗殺姫が屋根に立っていた。
いつものことだ。
この娘は気配を消すのが異様に巧い。
「……血の匂いだな」
「はい。御方の影を守るために、少しばかり血を頂きました」
そう言って、暗殺姫は胸元の印章を指先で撫でる。
薄く赤い血が滲んでいた。
「御方の印章は……痛いのに、嬉しい。これが刻まれてから、ずっと心が楽になったんです」
「……」
暗殺姫がふいにこちらへ身を寄せ、そっと頬を俺の肩に押し当てた。
冷たい。
でも、心地よかった。
「この街は、もう御方のものです」
「勝手に決めるな」
「……でも、御方が望めば、もっともっと黒くできます。光なんて、一つ残らず奪ってしまえる」
(……本当にそうかもな)
俺は夜空に視線を向けた。
月が薄く、雲に隠れている。
「影は踏まれるためにある。好きにしろ」
暗殺姫の唇が薄く綻んだ。
「はい。私が御方の影を、誰より深く踏みます」
ぞくり、とした。
それが恐怖なのか快楽なのか、自分でも分からなかった。
夜は深く、冷たく、どこまでも甘かった。