冷たい影と、熱い血と
夜が明ける頃、街の上層部――商会の屋敷や貴族の館に、ひそやかな動きがあった。
黒い印章を受けた者たちが、街角の路地や酒場で少しずつ増え始めている。
それは最初こそ孤児や浮浪者ばかりだったが、次第に盗賊団や傭兵、そして裏市場の商人へと伝染していった。
(……馬鹿な連中だ)
俺は夜明け前の石段に腰を下ろし、薄い月を見上げた。
冷たい石の感触が背中に伝わる。
商会の主だった連中は、陰で俺のことを調べさせているらしい。
「影の御方に逆らうと商売が潰される」
そんな噂が、すでに一人歩きを始めていた。
(全部……勝手に作られた神話だ)
思わず苦笑する。
本当は何の力も持っていない。
ただ夜に紛れて厨二の詩を呟いていただけの、孤独な男に過ぎないのに。
――そこへ、細い影が音もなく現れた。
「御方……お呼びですか?」
暗殺姫。
黒い短髪を夜気に濡らし、その目だけが異様に潤んで光っていた。
胸元の薄い布の下には、俺が刻んだ黒い印章がまだ赤く疼いている。
「呼んではいない」
「ですが、御方の近くにいたくて……」
彼女はわずかに頬を染め、こちらへ一歩近づく。
冷気が混じる。
甘いのか苦いのかわからない血の匂いが漂った。
「……血の匂いだな」
「はい。少し……商会の方々に、お仕置きを」
暗殺姫は笑った。
それがあまりにも無垢で――だからこそ、恐ろしかった。
「街の商会が私たちに献金を始めました。影の御方の印章を受けたいのだと」
「……下らない」
本当に、下らない。
なのに暗殺姫は喜びを隠さなかった。
「でも、これで御方はもっと街の主になります。誰も御方に逆らえなくなる」
「それを喜んでどうする」
俺が呟くと、暗殺姫の目が一瞬曇った。
「……御方は、いやなのですか?」
「そういう話ではない」
俺は少し言葉を選んだ。
この少女は危うい。
ほんの一言で簡単に破裂してしまいそうだ。
「俺は……影だ。影が自分から光を欲することはない」
「――なら」
暗殺姫は少し俯き、それから視線を上げた。
「その影を、私だけに踏ませてください」
「……?」
「御方の影を踏むのは、私だけでいい。他の誰にも、その影を触れさせたくない」
(……なるほどな)
俺は胸の奥で小さく吐息をついた。
この街の商会や貴族どもが、影を利用して保身を図ろうとするのとは訳が違う。
この少女は本気で俺の影に執着している。
血の匂いが強くなった。
よく見ると、暗殺姫の指先は赤く染まっていた。
細い短剣の刃が、光を弾く。
「お前……何をした?」
「少し、余計な商会の使者を。私の影に他の者が踏み入るのは、どうしても耐えられなくて……」
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
「影は……誰のものでもない」
「でも、私は御方に選ばれた。だから――」
暗殺姫は短剣を唇に当て、うっすらと血を舐める。
「私は御方の血を欲しがります。御方の痛みも、苦しみも、全部……欲しい」
それは願望とも誓いともつかない声だった。
俺は立ち上がり、夜気の中で外套を翻す。
「……勝手にしろ。ただし、影に恥じるな」
振り返らずに言うと、暗殺姫は嬉しそうに笑った。
「はい。御方の影として……この街の光を全部殺してみせます」
(……これでいいのか、俺は)
屋根を駆け、石壁を跳び越えながら、自問する。
街は確かに俺のものになりつつある。
だが、それは俺が望んだものだったか?
誰にも見られず、誰にも踏まれず、ただ影で居たかった。
それだけだったのに――
(いや)
違う。
俺は最初から、こうなることをどこかで期待していたんじゃないのか。
この胸の奥がわずかに熱を帯びる、この感触を。
影が、誰かの中で神話になる。
その甘さを――俺は望んでいたんじゃないのか。
(……滑稽だな)
唇の端が勝手に吊り上がる。
そのとき、遠くの通りで一際大きな悲鳴が上がった。
恐らく暗殺姫だ。
俺の影を守るために、また血を流している。
月はとうに傾き、夜はじきに終わる。
それでもまだ、俺の影だけはどこまでも濃かった。
(……踏まれるのは、悪くない)
それが、どれほど残酷な結末に繋がるのかも知らずに――
俺はそっと、夜の中で笑った。