表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/20

影を食む獣の、最初の涙

街の裏通りに、妙な空気が流れ始めた。


ここ数日、裏社会のチンピラどもが勝手に「影の御方」の噂を膨らませているらしい。

誰それが影の印章を受けただの、あの路地で影の御方を見た者は翌日に金が転がり込んだだの。

夜毎に歪んだ神話が積み重なり、街の空気を少しずつ変質させていた。


だが――


「……ガキどもが遊ぶには、いい種だな」


俺は細い笑いを唇に浮かべた。


瓦屋根に腰を下ろし、揺れるランタンの灯を見下ろす。

商人通りの角では、浮かれた道化師が見世物小屋を開いていた。

その隣で、黒いマントを真似した子供たちが「影の御方ごっこ」をしている。


「おい、貴様は影に逆らったから死刑だ!」


「ひぃっ、許して下さい影の御方!」


「……馬鹿馬鹿しい」


胸が少しだけ痛んだ。


(……俺の悪趣味な遊びに、子供まで巻き込む気はなかったんだがな)


そう自嘲した瞬間、屋根の影が動いた。


いや――影だと思ったものが、人間だった。


「……!」


気づくと、俺の背後に巨大な人影が立っていた。


ずしり、と重い空気が降りかかる。


振り返ると、そこには異様にがっしりとした大男がいた。

身の丈は二メートルを超え、太い首に無骨な肩、筋肉で膨れ上がった腕。

だがその目だけが、恐ろしく澄んでいた。


「――俺を、拾ってくださったのは……御方、あなただったのですか」


「……拾った覚えはない」


思わず即答していた。


大男は悲しそうに目を伏せ、それから小さく笑った。


「……やはり、影の御方はお優しい。俺のような罪汚れた者を、覚えていなくても当然です」


(なんだこいつは……)


俺は不意に感じた嫌な寒気に、わずかに身を引いた。


その時だった。


大男が懐から小さな紙束を取り出し、俺に見せつける。


「これは……娼館の帳面です。俺が昔、取り立てのために無理やり書かせた女たちの名簿……その中に、俺の姉の名もありました」


黒ずんだ紙には、細い筆文字でいくつもの名前が並んでいる。

どれも――生きた証とは思えないほど無造作に。


「御方は……その名簿を、焼かれた」


「……?」


「路地裏で、あの夜。御方が何気なく落とした火花が、俺の持っていた帳面を燃やしたんです。……あのとき初めて、姉は自由になれた気がしました」


そう言って、大男は大きな手で顔を覆った。


「……あれは、偶然だ」


俺は呟く。


偶然。

ただの俺の不注意。

火打石で刻印具を整えていたら、燃え移っただけ。


だが――


「御方の御業は、偶然などではありません……」


大男の肩が震えた。


「この身を、御方の影として捧げさせてください。俺は……誰よりも痛みを知っています。痛みを与えることの意味も、苦しみを与える意味も……御方の影として、それを糧に生きます」


(……厄介なことになってきたな)


俺は内心で額を押さえた。


この街の裏社会には、確かにこういう狂気が潜んでいる。

恐怖と絶望に慣れきった人間ほど、光には戻れない。


「……好きにしろ」


そう吐き捨てるように言うと、大男の目は潤んだ。


「影は罪を抱えるためにある……御方がそうおっしゃってくださるなら、俺はこの手を血に染め続けましょう」


違う。

俺はそんなことは言っていない。


だが――

止める気力が、不思議と湧かなかった。


(これが……影の支配者ってやつなのか?)


ふと、遠くから子供たちの笑い声が聞こえた。

「影の御方ごっこ」をしていた子供たちが、闇の中で俺を見上げて手を振っている。


――どこか、眩しいようで、胸がざわつく。


「……行け」


俺は大男に背を向けた。


次の瞬間、大男は屋根の縁から飛び降り、石畳に膝を突いた。


「御方の影に恥じぬよう、この命を砕きます」


夜風に、その低い声が溶けていった。


(……ああ)


これが、俺が望んだ夜の世界。


俺の影を踏みつけ、血を流し、痛みを抱える。

それでいて――皆が勝手に俺を必要としてくれる。


妙な充足感があった。


(滑稽だな)


笑いそうになりながら、俺は再び屋根の上を走った。


遠く、どこかの通りで悲鳴が上がった。

暗殺姫のものか、あるいはあの大男か。


血の匂いが夜風に乗り、俺の外套に絡みつく。


(影は……こうして世界を汚していくものだ)


俺は、ひどく満たされていた。


何も知らずに。


この街がやがて俺の影で覆い尽くされること。

それが、世界規模の恐怖として語られることになるなど、まだ思いもしなかった。


ただ――


その夜だけは、影の中で深く呼吸できた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ