黒の印章と、孤児たちの神話
俺は暗殺姫――名も知らぬその小さな背を、気まぐれに路地の奥へと導いた。
夜が終わる前に、人目を避けるためだ。
だが、それ以上に。
この街で、俺に平伏した子供や女は何人もいた。
だが、この暗殺者の目は少し違った。
恐怖と渇望が入り混じった、まるで――餓えた野良犬のような瞳。
何かにすがらなければ生きられない。
けれど、すがる先を間違えれば簡単に地獄へ落ちる。
そんなギリギリの不安定さを、その瞳は抱えていた。
「お前、名はないと言ったな」
「……はい」
膝をつき、首を垂れる彼女の髪からは、かすかに鉄と血の匂いがした。
「なら、影に刻め。名前の代わりに、印章を」
俺は黒革のベルトにぶら下げた細い筒を外した。
中には、自作の黒い刻印具が入っている。
本来ならこんなものはただの厨二小道具。
金貨を支払って作らせた、いびつな魔法刻印の模造品だ。
だが、少女の瞳はその印章を見た瞬間、驚愕に震えた。
「そ、それは……!」
「分かるか?」
俺は面白がって訊いた。
「……影の、紋……。伝承でしか聞いたことが……」
「そうだ。お前がそれを知っているなら、話が早い」
完全にブラフだ。
俺はただ自分の陰の支配者ごっこのために作らせただけだ。
けれど少女は息を詰め、小さく涙を浮かべながら――
「……この刻印を受けられるなら……もう、生きる意味はそれだけで」
そう呟き、服の胸元を自ら掴んで引き裂いた。
薄い皮膚に冷気が触れる。
心臓の高鳴りが、視覚化されたかのように脈打っていた。
(……おいおい、何をやってるんだ)
俺は目を細め、細剣の柄に手を置いた。
この刻印は――魔力が込められているわけでも、呪いがあるわけでもない。
ただの黒い煤墨を特殊な鉱粉で練っただけの代物。
痛みは少しあるが、焼き印ほどではない。
だが少女は震える手で胸元を押さえ、俺の視線を待った。
(……この街の人間は、本当に弱いな)
そう思いながらも、俺は刻印具を火打石で軽く熱した。
小さな蒸気が立つ。
「お前の影は、もう俺のものだ」
ごっこの台詞。
それだけのはずなのに――刻印具を当てた瞬間。
「――あ、ぁ、ぁぁ……っ!」
少女は細い体を震わせ、声にならない声を吐き出した。
胸に黒い紋章が浮かぶ。
簡素な曲線といびつな輪郭、それだけの印なのに。
「これで、お前はもう――影の一部だ」
「はい……はい……っ」
彼女の目は熱に潤み、その瞳孔は愉悦に広がっていた。
恐怖ではない。
快楽と救済が入り混じった、得体の知れない表情。
(――なるほど)
俺は小さく吐息を洩らす。
この街の人間は光に群れるが、群れから弾かれたとき――闇を神にする。
俺のたわけた厨二病は、その場しのぎの遊戯でしかなかったはずだ。
なのに、それを真剣に信じる連中がいる。
この印章一つで、命を投げ出せるほどに。
(……いいじゃないか)
影が人を救うなら、それでいい。
俺は少女の額に手を置き、軽く押さえた。
まるで騎士の叙任式のように。
「もう怖れるな。お前は影だ。どこにいても、俺の一部」
「……はいっ」
短剣を差し出し、少女は震える手で自らの左掌を切った。
血が滴り、路地の石畳に黒く広がる。
「血で契るのが……この街の流儀です」
(……どこの流儀だよ)
乾いた笑いが喉に引っかかる。
だが、もう止めなかった。
ここで拒めば、この少女はまた光を求めて殺しに戻るだけだ。
俺は彼女の掌に自分の指を添え、血をなすりつけた。
「影は血より深い」
呟くと、少女は声を詰まらせた。
まるで泣いているのか笑っているのかわからない。
その夜――
街の裏通りには、黒い印章を胸に刻んだ少女が、屋根の上を飛び、壁を這い回る奇妙な噂が広まった。
影の御方に選ばれし“影姫”。
血で結ばれた夜の巫女。
人々は勝手に神話を作り始める。
俺の知らないところで、もっともらしい伝説を。
(影はいつだって、踏まれるものだろ?)
俺は屋根の上で独り、月に背を向けて嗤った。
孤児たちが俺を見つけて声を上げる。
「影の御方!影の御方!」
まるで子供の遊びだ。
でも、誰も止められない。
これがいずれ、街を呑み込み、王都を呑み込み、国を呑むことになる――
その夜はまだ、そんな未来を少しも想像できなかった。