光を呑む影、影に咲く血
夜明けの街は、今までにないほど奇妙な色をしていた。
聖堂騎士たちが掲げる聖旗の周囲だけ、まるでそこだけが昼のように白く光っている。
その中心に、聖女がいた。
「ここは……まだ穢れていない」
小さく囁きながら、薄い手を地に置く。
瞬間、石畳に淡い紋様が広がり、光の花のようにその周囲を照らし出した。
聖域がさらに広がり始めた。
その光はただの光ではなかった。
地下に拡がった影の術式を焦がし、御方の影の網を少しずつ溶かしていく。
地下。
第一幹部が刻印具を振り上げる直前に、急にその手を止めた。
「……なんだ?」
洞窟の壁が僅かに震え、黒い刻印の線が淡く滲んでいる。
まるで苦しげに、影が呻いているようだった。
「光が……」
魔科学者が管を握りしめ、瞳を細めた。
「……聖女の光が、影の地下王国に入り込もうとしている」
冷たい声に僅かに興奮が滲む。
「でも……ならば試すしかありませんね。――影は踏まれるためにある。なら光に踏まれた時、どう変わるか……」
魔科学者は手を伸ばし、黒い鉱液に光る触媒を落とした。
「光を……逆に捕食する」
血のように赤黒い波が液面に広がり、洞窟の奥へゆっくりと滲んでいく。
第一幹部は黙ってそれを見ていた。
御方の影が何であれ――自分はその爪であり、痛みであり続ける。
地上。
屋根の上。
俺は静かにその光景を見下ろしていた。
白い光の聖域が少しずつ街を侵食する。
それは確かに恐怖だった。
俺が撒いた影が――この黒い甘さが――削がれていくようで。
(でも……)
いつの間にか、暗殺姫が隣に寄り添っていた。
血に濡れた小さな体。
胸元に手を当て、何度もそっと撫でている。
「御方……」
か細い声が夜気に溶ける。
「御方の子……私の中で、もっと動く気がするんです」
(……そうか)
もうそれを嘘とも狂気とも思えなかった。
暗殺姫の指先は確かに震えていて、その目は泣きそうに潤んでいる。
「御方……この子は、御方の影です。きっと御方の血と影が形になったんです」
「……」
暗殺姫は泣き笑いしながら、俺に額を擦り寄せた。
「だから……この子も私も、御方にしか触れさせない。誰にも奪わせない。光なんかに……絶対に……」
その声は切実で、恐ろしくて、でも――どこまでも愛しかった。
思わず腕を伸ばし、その体を抱き締める。
「……そうだな。誰にも奪わせない」
暗殺姫は涙を溢して笑った。
「御方……御方……!」
その声が胸の奥を震わせる。
(……もう完全に抗えないな)
影の御方として崇められる自分が、その影に踏まれている。
でも、それが――この上なく甘い。
地下。
光がさらに侵入し、洞窟の刻印が眩く弾けた。
捕らえられていた聖堂騎士たちが一斉に呻き声を上げ、胸元の黒い刻印が熱を帯びて煙を上げる。
「く……あああああああっ!」
第一幹部は冷たい目でその光景を見つめた。
次の瞬間、魔科学者が細い指で呪符を握り潰す。
「御方の影を……光で満たし、その光を逆に呑ませる」
黒い鉱液が再び脈打ち、光を取り込むようにゆっくりとうねり始めた。
洞窟中に、妙な圧が生まれる。
「影は……光を食らって、もっと濃くなる」
魔科学者の瞳が妖しく光った。
第一幹部はその光景に僅かに口角を上げる。
(御方……どんな光が来ようと、この影は決して崩れません)
屋根の上。
暗殺姫は再び腹に手を当て、小さく笑った。
「御方……この子はきっと、御方が一番欲しかったもの。御方の影の証……」
「……」
返す言葉はなかった。
でも、そっと髪を撫でると、暗殺姫はまた泣きそうに笑った。
その瞳はあまりに壊れていて、それでもこの世の誰よりも俺を必要としていた。
(……もう、どうなってもいい)
街の奥で血の匂いがまた一つ強まった。
その匂いは甘く、夜風がそれを攫うたび、胸の奥がじんわりと熱を持った。
(この影を……最後まで踏まれてやる)
そう思った瞬間、暗殺姫が細い声で囁いた。
「御方……私、この子のためにもっと血を流します。御方が望むなら、何でもします」
「……勝手にしろ」
その言葉を聞いた暗殺姫は泣きながら笑い、俺の首に腕を回して強く抱きついた。
(ああ――)
もう影は俺のものじゃない。
俺が影に呑まれてる。
でもそれが、ただただ甘くて仕方なかった。




