踏まれた影が、はじめて嗤った夜
夜明け前の街は冷たく、石畳には霜が下りていた。
呼気が白く曇る。
いつもより早く目が覚めてしまい、俺はただ歩いた。
夜が好きだと言っても、さすがに夜明けの冷気は骨まで刺す。
それでも家に帰る気にはなれなかった。
昨夜の光景が、どうにも頭から離れない。
(……影の御方?)
あの小物のチンピラどもが吐き出した言葉だ。
「影を知る者だけが、生き延びる資格を得る」
確かに俺はそう言った。
完全に気分で、思いつきで、いつもの演劇みたいに。
だが、あの恐怖に歪んだ顔は――あれは嘘じゃなかった。
(あいつら、本気で俺を何かと勘違いしてる?)
くく、と喉の奥で乾いた笑いが漏れた。
面白い。
ひどく滑稽だ。
陰の支配者を気取るだけの男を、本当に恐れるなんて。
(まぁ、誤解は誤解のままにしておけばいい)
俺は歩調を緩め、商人街の外れにある古い噴水の縁に腰を下ろす。
ここは昼間は子供たちが水遊びをする場所だが、この時間は人気がなく、しんと静まり返っていた。
月はまだ完全には沈んでおらず、黒い水面にひび割れた白い光を投げ込んでいる。
――ふいに、石畳を小さな影が駆け抜けた。
俺はゆっくり視線を落とす。
歳の頃は十にも満たないだろう。
骨ばった腕に薄汚れた布を巻きつけ、素足で走る孤児。
何かの袋を抱えてこちらへ走ってくる。
俺と目が合った途端、その子供はハッとしたように立ち止まり、次の瞬間地面にひれ伏した。
「ひ、ひぃっ……!す、すみませんっ、御方……!」
御方――?
やはり、俺を誰かと勘違いしているらしい。
(何を聞いたんだ?どこで?)
少し興味が湧いた。
「……頭を上げろ」
低く抑えた声が自分でも驚くほどよく響いた。
夜気に濡れ、声はまるで冷えた鉄のようだった。
子供は恐る恐る顔を上げる。
泣きはらしたような赤い目と、血がにじむ唇。
袋の中身は――黒いパン。きっと盗んだのだろう。
「それを持っていけ」
「え……?」
「影は空腹を満たさぬ。お前にやる」
まるで脚本に書いてあったかのようにスラスラと口から言葉が出る。
いや、違う。
これは俺の厨二病が生んだ即興劇だ。
なのに、その子供はボロボロと涙をこぼした。
「ありがとうございます……!影の御方、ありがとうございますっ!」
がたがたと震える体で、パン袋を抱きしめたまま走り去っていく。
俺は噴水に映る自分の影をじっと見つめた。
(……踏まれた影が、嗤ったか)
少しだけ、口元が緩んだ。
誰かが俺を恐れ、誰かが俺を信仰する。
なんとも愚かで――けれど心地いい。
それで終わるはずだった。
ところが、夜が明けきる前の薄灰色の路地に別の影が現れた。
「……あれが、噂の影の御方?」
軋むように冷たい声。
俺は振り向く。
そこに立っていたのは、小さな体躯に似合わぬ長い双剣を背負った少女。
漆黒の短髪に、光を殺すように抑えられた瞳。
(……なんだ、この子は)
次の瞬間、俺の首筋に薄い刃が当てられた。
「動かないでください」
冷たい。
まるで氷のようだ。
普通ならここで怯えるのだろう。
だが俺は夜と遊び続けてきた。
この程度の刃では心は震えない。
「どうするつもりだ?」
「確かめるだけです。あなたが、本当に影を司る御方かどうか」
吐息が首にかかるほど近い。
小さな胸が上下し、少女の目はどこか不安げに揺れていた。
(面白い……)
心臓が小さく跳ねた。
「お前の名は?」
「……ありません」
「なら、影に名を刻むな。闇は名前を嫌う」
少女の瞳が大きく見開かれ、薄く震えた唇が微かに開く。
(ああ、この反応……俺の戯言をどこまでも真に受けている)
俺はゆっくりと口元のマスクを整えた。
「影を恐れるか?」
「……恐れて、います。でも……」
少女の双剣が下がり、俺の足元へ跪いた。
「それでも、影の御方に拾われたいと……ずっと思ってました」
――なんだそれは。
胸の奥が妙に痛む。
孤児の目、そしてこの暗殺者の目。
同じだ。
光に見捨てられた人間の目。
「……面倒なことになりそうだな」
俺は小さく吐き捨て、背を向けて歩き出した。
「ついてこい」
「……はい」
闇は踏まれてこそ嗤う。
俺の影はもう、とっくに一人で歩き始めていた