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影の胎動、血の微笑

夜明けが訪れるはずの空は、暗い雲に覆われていた。


その雲を背景に、王都軍は街を包囲し終えていた。


数千の兵と数百の聖堂騎士、さらには聖堂魔導師団が投入された、文字通り国家総力戦。


丘に陣取った指揮幕の中、聖堂騎士総長が地図を睨みつける。


「これ以上、この黒影の異端を放置することはできぬ。陛下の勅令も下りた。――総攻撃を開始する」


兵たちが小さく呻いた。


影の御方、黒い印章、血に酔う巫女――

討伐軍の残党から漏れ伝わる噂が、王都軍全体を既に薄暗く染め上げていた。


それでも聖堂騎士総長は剣を引き抜き、声を張り上げた。


「光の名において進め! 影など、光の剣で貫き消すのだ!」


号令が響き、角笛が鳴り渡る。


街を取り巻く光の列が、一斉に動き出した。


石門は前回の襲撃で既に壊されていた。


討伐軍は隊列を組み替え、慎重に中へ入る。


街の中はひどく静かだった。


石畳には古い血の黒い染みが点々と残り、壊れた屋台や焼け焦げた壁が痛ましい。


(……逃げたか?)


ある若い聖堂騎士が仲間に囁く。


だが次の瞬間、頭上の瓦屋根が崩れ、そこから黒い影が降りてきた。


「影の御方のために」


耳元で囁かれ、若い騎士は思わず剣を取り落とした。


刃が喉元をかすめ、血が噴き出した。


周囲の聖堂騎士が一斉に振り返ったが、既にその黒い影は屋根の向こうへ消えていた。


「散開するな!密集して進め!」


隊長の怒声が飛ぶ。


それでも恐怖は鎧を簡単に貫いていった。


街は再び血と炎の坩堝になりつつあった。


地下。


第一幹部は捕らえたばかりの聖堂騎士たちを鎖に繋ぎ、黒い鉱液を溜めた石の鉢の前へ並ばせていた。


「……影を知らぬ者は脆い。だから御方に仕える資格がない」


震える聖堂騎士の首に、熱した刻印具を押し当てる。


「ぐぁあああっ……!」


悲鳴が地下の壁に響き、その声を黒い鉱液が静かに吸い込んだ。


「御方の影を、この国の血の中へ」


第一幹部は刻印を焼き付けた男を抱えるようにして溝へ突き落とした。


血が鉢に広がり、黒い術式の線が淡く光る。


地下はますます広がり、影の王国がじわじわと胎動を始めていた。


地上の戦場。


暗殺姫は既に血に塗れていた。


細い脚にまで血が伝い、その足跡すら黒く残る。


「御方……御方、見てください……」


切り裂かれた聖堂騎士の血を胸の印章に押し付けながら、息を荒くして呟く。


「私……御方の影を守るためなら、どこまででも堕ちます……」


白い聖堂の軍旗が血で濡れ、倒れた兵の瞳に夜空が映る。


その夜空には、瓦屋根の上で外套を翻す主人公――御方の姿があった。


屋根の上。


俺は黙って街を見下ろしていた。


再び血が溢れ、影が濃くなる。


(……もう戻れないな)


自嘲するように唇がわずかに歪む。


この影を撒いたのは自分だ。

どこかでそれを望んでいたのも自分だ。


もう誰にも止められない。


その時だった。


「御方……!」


血に濡れた暗殺姫が、瓦を蹴り飛ばしながら飛び上がってきた。


「御方……!」


泣きそうな顔で笑いながら、腕を伸ばす。


次の瞬間、彼女は俺の胸に抱きついた。


血の温度が外套を通して伝わり、少し息が詰まる。


「御方……私……」


暗殺姫は涙をこぼしながら笑った。


「私……御方の子を……孕んだ気がします」


(――え)


その言葉は、さすがの俺をも一瞬沈黙させた。


「御方の影を……私の中で育てます。御方の影をもっともっと深く……御方のために……」


細い腕が強く背中を抱く。


血と涙で湿った息が、耳元で震えた。


「御方……私、御方のものですよね……?」


(……ああ)


もう否定なんてできなかった。


そっと額を寄せると、暗殺姫は嬉しそうに目を閉じてまた涙を零した。


その夜、街の地下ではさらに多くの捕虜が刻印を刻まれ、血を流した。


魔科学者はその血を媒介に術式を広げ、街全体を黒い網のように覆い始めた。


「これで……御方の影は、王都へも届く」


冷たい声が、地下の壁に響く。


第一幹部は静かに血塗れの手を胸に当て、黙って頷いた。


屋根の上。


暗殺姫が胸に顔を埋めたまま、子供のように小さく息をする。


その背をそっと撫でながら、俺は目を閉じた。


(……御方の子を孕んだ気がする、か)


胸の奥が妙に震えた。


それは恐怖か。

あるいは――


血と痛みの匂いに包まれながら、影はさらに深く、夜の底へ沈んでいった。

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