血に咲く影、影に嗤う血
夜明け前の街は、遠くから見れば静寂に沈んでいるように見えた。
だが街道を挟んだ丘の上には、幾千もの松明の光が蛇のように揺れていた。
王都軍――
光の名の下に進軍する、正規の軍勢。
聖堂騎士団を中心に組まれたその陣容は、前回討伐に送られた追撃隊とは比較にならない。
「光は影を焼き尽くす」
騎士長が馬上から剣を掲げた。
それは戦意を鼓舞するための言葉。
だがその顔は硬く、その瞳には確かに恐怖が滲んでいた。
街を覆う黒い噂――
影の御方、黒い印章、血と痛みを喜ぶ異端。
それらが彼らの心を既に鈍く蝕んでいた。
第一波の突撃が街の石門にぶつかった。
衝角と衝車を用い、正面から強引に突破を図る。
「門を破れ! 光の名において、影を討て!」
轟音が夜明けの空に響き、城門がわずかに軋んだ。
だがその上に立つ黒い外套たちが、待ち構えていた。
「影の御方のために!」
油の樽が放たれ、火矢がそれに火をつける。
瞬間、門前は紅蓮の海になった。
聖堂騎士たちが悲鳴を上げ、炎に包まれてのたうつ。
「進め!影ごと焼き尽くせ!」
それでも騎士長は剣を振り上げ、第二列、第三列の突撃を繰り返す。
街はすぐに血の匂いで満たされた。
一方、地下。
第一幹部は既に街道沿いの古い商会倉庫を改造した地下拷問場に移動していた。
そこには街の混乱から逃げ込んできた住民たちが、恐怖に顔を引きつらせてひしめいている。
「な……何をする気だ……」
「私たちはただの商人だ! どうか見逃して――」
第一幹部はゆっくりと歩み寄り、その太い手で男の顎を掴んだ。
「影を知らぬ者は、この街に住む資格がない」
「ひっ……!」
熱した刻印具が、男の胸に当てられる。
「ぐぁぁああああああああ!」
悲鳴が地下を震わせ、他の住民たちが一斉に壁際へ逃げ惑った。
だが幹部の手は止まらない。
一人一人に黒い印章を刻み、その血を地下の黒い溝に流す。
「御方の影は血を糧に育つ」
第一幹部のその声はどこまでも静かで、残酷な優しさに満ちていた。
地上では、街中が戦場だった。
討伐軍は街道を突破し、一気に広場へなだれ込む。
聖堂騎士の列は確かに強かった。
だがそこには暗殺姫がいた。
黒い短髪を夜気に揺らし、頬には乾いた血の痕。
その目は恍惚と熱に濡れ、細い刃を血の中へ次々に突き立てていく。
「御方……御方、見てください……!」
切り裂かれた騎士の喉から血が吹き出し、その飛沫を顔に浴びると、暗殺姫は小さく声を漏らした。
「御方……私、もっと血を捧げます……御方の影を守るのは私……!」
聖堂騎士の一人が震える声で剣を構える。
「化け物め……!」
「違う」
暗殺姫は笑った。
その笑みは痛々しいほどに嬉しそうで、狂っていて、どこか幼い。
「私は御方の影……御方のためだけの影……!」
瞬間、短剣が跳ね、聖堂騎士の鎧の隙間を裂いた。
血が噴き出し、その血を暗殺姫は両手ですくい上げ、印章の刻まれた胸に押し当てた。
「御方……見て……御方の影は、私が守るから……」
屋根の上。
俺はその光景をずっと見下ろしていた。
街が血と悲鳴に満ちる。
討伐軍の白い列が次々に崩れ、黒い外套たちが夜の獣のように襲いかかる。
その中心で、暗殺姫が血を浴びて笑っていた。
(……もう俺には)
止める力なんて、残っていなかった。
いや――そもそも止める気があったのか。
この夜の深さ、この血の温かさ、この影の重み。
それがたまらなく心地よくて、胸の奥が小さく疼いた。
「御方……!」
暗殺姫がこちらを見上げ、血に塗れた顔で涙を零した。
「私……御方の影でしょ……?御方のために、何人でも殺します……御方のために、この街を全部血で染めます……!」
(ああ――)
唇の端が勝手に吊り上がる。
影は踏まれるためにある。
なら俺は――最後まで踏まれてやろう。
その夜、王都軍は潰走した。
討伐軍の残党が街道へ逃げ帰り、影の御方の名を泣き声のように唱える。
「黒い印章を……影の御方が……屋根の上から嗤っていた……」
その声はやがて王都へ届き、光の王宮を冷たく濡らす。
屋根の上で、俺はそっと血に濡れた手を見つめた。
暗殺姫がいつの間にか背中に寄り添い、その細い指で俺の指を絡め取る。
「御方……」
小さく囁くその声が、痛いほど愛しかった。
(……もうどうにでもなれ)
夜風が冷たく頬を撫でる。
血と涙と影が、その夜をとても甘くしていた。




