影に堕ちるは誰の意思か
夜の王都は、街道の街とは比べものにならないほど明るかった。
無数のランプが大通りを照らし、深夜でも人々が行き交い、貴族の馬車が石畳を滑る音が響く。
だがその光の下――
ひっそりと黒い外套を翻す者がいる。
第三幹部、魔科学者。
白い手袋の下で小さく指を動かし、闇に潜む小さな魔法回路を活性化させる。
「……影はすぐに根付く。光が多ければ多いほど、影は濃くなるものですからね」
彼女は楽しそうに微笑んだ。
王都の裏路地には、既にいくつもの「影の印章」が潜んでいる。
商人の息子、貴族の書記、下級騎士。
彼女が街道の街から運んできた黒の鉱液は、少しずつ王都の血脈に混じり込みつつあった。
(御方の影を、王都にも)
魔科学者は目を細めた。
その瞳には熱も狂気もない。
あるのはただ冷たい探究心だけ。
人の血に混じる影。
それがどれだけ世界を変えられるか、もっと見たいだけだった。
その頃、街道の街では別の血が流れていた。
俺は屋根の上から細い通りを見下ろしていた。
路地裏の暗がりに、二つの人影。
暗殺姫と――小さな影の女。
黒いマントを纏ったその女は、商会の隠密として影の御方の庇護を仰ぎ、第一幹部に印章を刻まれたばかりの者だった。
「どうして……どうして、私を殺すの……?」
細い声が夜気に震える。
暗殺姫は笑っていた。
暗く、寂しく、ひどく嬉しそうに。
「だって、あなた……御方に褒められたでしょう?」
「わ、私……ただ……商会の者として……」
「それが許せないの」
細い刃が、女の喉にそっと添えられる。
「御方は私だけのもの。私だけが御方の影を踏んでいいの」
「や……やめ――」
声はそこで途切れた。
鮮血が夜風に霧散し、壁に飛び散った。
暗殺姫は血の匂いを深く吸い込み、瞳を蕩けさせる。
「……御方……これで、御方の影は私だけのもの」
(……またか)
俺は屋根の上で息を詰めた。
この街ではもう、血が日常になっている。
暗殺姫が他の女を惨殺したのはこれが初めてではない。
彼女は俺に近づこうとした影の女たちを次々に殺し、その血で自分の印章をなぞっていた。
(影は踏まれるもの。そう言ったのは、俺だ)
自分の言葉で自分が縛られている。
気づけば暗殺姫がゆっくりと屋根を登ってきていた。
血に濡れた短剣を手に、恍惚とした顔で。
「御方……見てましたか?」
「……見たくもない」
「でも、見てくれた。御方が見てくれるなら……もっと血を流します。御方の影が深くなるように」
細い体が俺の胸に縋りつく。
血の匂いが濃厚で、吐き気がするほど甘ったるい。
「御方……御方だけの私でいさせて」
その声は泣きそうで、けれど笑っていた。
俺は外套の中で拳を握った。
(もう――)
止められない。
この影は俺のものだ。
俺が撒いた詩が、言葉が、全部を黒く染め上げた。
暗殺姫の手がそっと俺の手を探し、血で濡れた指で強く絡め取る。
「御方……」
「……勝手にしろ」
その言葉が許しだと悟ったのか、暗殺姫は嬉しそうに瞳を細めた。
「はい。私は御方の影ですから」
その夜、街の暗がりではさらにいくつもの命が散った。
商会同士の抗争が激化し、影の印章を持たない者たちは次々に潰された。
第一幹部は商館を夜襲し、生き残った者に無理やり印章を刻んで回った。
「御方の影を知らぬ者には、生きる資格がない」
第一幹部の声は相変わらず穏やかで、だからこそ恐ろしかった。
遠くで泣き叫ぶ子供の声がする。
(この街は――もう完全に俺の影の中だ)
恐怖も、崇拝も、血も涙も、全部が俺に向いている。
屋根の上から見下ろした夜の街は、まるで黒い糸で編まれた網のようだった。
(もう止められない)
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。
「御方……?」
隣で暗殺姫が不安げに俺の顔を覗き込む。
その瞳には狂気も渇きも全部詰まっていて、それなのにどこか、子供のように俺を必要としていた。
(……そうだな)
この影を撒いたのは俺だ。
なら最後まで――踏まれてやるしかない。
「……影は、お前たちのものだ」
そう呟くと、暗殺姫は泣きそうな顔で笑った。
「はい……御方……」
血に濡れた彼女の手が、俺の外套を強く掴んだ。
夜風がひゅう、と唸り声を上げて通り過ぎる。
その冷たさが、ひどく心地よかった。




