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影はそこに在るだけで

夜の街には、どうしてこうも居心地が良いのか。

昼間はどこもかしこも煩わしい喧噪に溢れ、人が多く、光が強すぎて息が詰まる。

だが夜になれば全てが沈黙し、街灯の火すら頼りなく震えている。

そういう世界の方が、俺にはちょうどいい。


黒に包まれ、誰もが視線を逸らす。

それだけで、少しだけ――救われる気がした。


俺は瓦屋根の上に腰を下ろし、足を投げ出す。

土埃とススに汚れた古都の街並みは、夜になるとより一層歪んで見える。

屋根瓦の割れ目からは寒風が吹き上がり、俺の黒い外套の裾を持ち上げていった。


「……今日もつまらない街だ」


小さく息を吐く。


見下ろす路地では、二人組の酔っ払いが口論していた。

一方は商人風の太った中年、もう一方は痩せぎすの賭博師風情。

互いに肩を突き飛ばし合い、悪態をつき、やがて肩を落としてそれぞれの夜へ戻っていく。


誰も俺には気づかない。

屋根の上に座り、夜空に問いかけるこの愚行を、誰も知らない。


「……闇は歌う。俺だけにしか聞こえない旋律でな」


口に出すと、ひどく気恥ずかしい。

心臓が少し跳ねる。

俺は独り、夜の街で中二病を演じているに過ぎない。


分かってる。

自分でも笑いそうになる。

けれど――それが、いい。


子供の頃から、俺にはこの闇が必要だった。

明るい場所に行けば、いつも誰かと比べられ、笑われ、遠ざけられた。

「変わり者だ」「気味が悪い」「何を考えてるかわからない」


なら、最初から何も語らず、何も見せなければいい。

闇に潜んで、自分だけの物語を作ればいい。

この狭い心臓に針を刺してでも――そうして生き延びるしかなかった。


「……ふん」


俺は小さく鼻で笑い、立ち上がる。

黒いマントを翻し、屋根の端から身を躍らせる。

地面までの距離は三階ほど。

重力に引かれ、一瞬だけ心臓が浮いた。


ドン、と音を立てて膝をつき、そのまま低い姿勢で路地へ転がる。

外套の中に隠した細剣の鞘が腰骨に当たって鈍い痛みが走った。


「……ちっ、またやりすぎたか」


だが、この感覚がいい。

夜と一つになった気がして、脈打つ血が喜んでいた。


路地裏は相変わらず湿気と生ゴミの匂いで満ちていた。

俺は口元を覆う黒い布を少し上げ、細く笑みを刻む。


この街は、腐っている。

誰もが金と快楽に踊り、弱い者を踏みにじり、強い者に媚びへつらう。


その浅ましさこそが、俺の影をより濃くしてくれる。

こんな場所だからこそ、俺のような――夜にしか生きられない人間は存在を許される。


(……もっと見せてやりたい)


誰にともなく思った。

この暗闇がどれだけ甘美か、この影がどれほど心を解き放つか。


だから俺は今日も夜に出る。

黒い外套を羽織り、顔を隠し、屋根を伝い、闇の詩を口にする。


ただの自己満足。

ただの愚かな遊戯。


……そのはずだったのに。


「おい!」


鋭い声が飛んだ。

振り返れば、酒場の裏口から飛び出してきた二人組の男がこちらを見つめていた。

薄汚れた皮の胴着をまとい、ナイフを腰に差している。

小物のチンピラだろう。


俺は軽く視線を流し、また夜へ消えようとした。


だがその瞬間、男たちの顔がみるみる青ざめた。


「ひ……影……の御方……!」


「なっ……」


俺は思わず足を止めた。


「お、俺らは……その……っ。もうカツアゲなんざしません!どうか、この命だけはお許しを……!」


わけがわからない。

俺はただの陰の支配者ごっこをしているだけだ。


「…………」


だが――。


(……いや、面白いな)


俺は視線を細め、口元に指をかけてゆっくりとマスクを整える。

そして、わざとらしく息を吐き、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「この世の小物は、光に群れる。だが――影を知る者だけが、生き延びる資格を得る」


口にした瞬間、心臓が熱を持った。

ああ、これだ。

俺はこの言葉を誰かに向けて言いたかったんだ。


だが男たちは、まるで死刑宣告を聞いたように顔を引きつらせ、転げるようにその場から逃げていった。


「……なんだったんだ、あいつら」


俺は肩をすくめ、黒い外套の裾を払う。


夜風がひゅう、と唸り声をあげる。


振り返れば、灯りの落ちた通りがどこまでも続いていた。

瓦屋根の隙間から洩れる煙、石畳に残る血の染み、盗賊たちの隠れ家の赤い窓。


俺はただ、そういう場所で息をするのが好きだっただけだ。

誰にも見られず、誰にも干渉されず、ただ自分だけの闇を抱えていればいい。


(なのに……なんだ、さっきの連中は)


妙な胸騒ぎがあった。

あれは単なる偶然か、それとも――。


「……ま、いいか」


俺は踵を返し、また夜の中へと溶けていく。


光を拒み、影に沈み込み、誰にも見つからない場所でただ生きる。


そう、俺はただの陰の支配者ごっこを楽しんでいるだけだ。


こんなものが――

誰かの人生を変えるはずなんて、あるわけがない。


このときは、本当にそう思っていた。


気づかずにいた。

この夜から、すべてが始まってしまうことを。


影はそこに在るだけで、世界を変える。


その意味を、この先嫌というほど思い知ることになるとも知らずに――。



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