第四話
「ねぇ、ここの答えなに?」
授業中に遥香がコソッとナツメに聞いた。
「自分で解けや。」
ナツメはクスッと笑い、遥香に言い返した。
「そんなこと言わないでよ。次私が当てられるからこの問題の答えがわからないとやばいの。帰りに肉饅買ってあげるからお願い!」
タメ口で頼むと、遥香は両手を合わせた。手の横からナツメの反応を窺う。うーんと悩むとナツメはしょうがないと言い、宙を回って先生のノートを覗き込んだ。ページを見渡すとそれっぽい解答を見つけて、遥香の耳に伝えた。
「ほんと?」
「多分。」
「多分?」
ナツメが教えてくれたものに疑いを持つ遥香だったが、次の瞬間先生に指された時に勢いよく答えを言った。
「四!」
教室は静まり返り、先生は頭を抱えた。
「違うぞ神崎。選択肢はア、イ、ウだ。ちゃんと聞いておけ。」
恥ずかしさで遥香は席で縮まり、肩を狭めて黙り込んだ。視界の右端でクスクスと笑っているナツメを見るとプンとした顔を見せた。クラスの子もクスクス笑っているとみんながナツメと一緒に企んだイタズラみたいで自分以外にはナツメが見えないことを特別に思っていた遥香にとってはちょっといやだった。
「違うじゃない!」
小さな声でで遥香はナツメに言った。
「だってイの四って書いてあったー。」
「答えはイじゃん!」
数学の授業が終わったとき、遥香はまだ教科書を開いたまま、ノートの最後の数式をじっと見つめていた。
「明日このプリントを忘れないように!」
先生が授業後に配ったプリントを仰いでみんなに知らせる。たぶん何人か忘れたり、くしゃくしゃで鞄の中でやぶれてしまうだろう。明日の授業の初めで配ればいいのに、と遥香は思った。
放課後になり校門を出てから、遥香はいつものように一人で歩いた。友達と話しながら帰る日もあれば、ひとりで音楽を聴きながら歩く日もある。でも今日はイヤホンをつけない。なぜならナツメがいるから。遥香はナツメが一緒にどこも行くようになってからずっとナツメと話していた。周りからは独り言にしか見えないので変な目で見られる。人が大勢いるところとかは電話をしているふりをしてごまかしたりしながらナツメと話す。
家に着いたのは、午後四時すぎ。玄関の扉を開けると、家の中はやけに静かだった。いつもならキッチンからお母さんの鼻歌が聞こえてきたり、テレビの音が小さく響いていたりするのに。
「ただいま」
「おかえり、遥香」
お母さんの声がしたけれど、その響きにはどこか、いつもと違う重さがあった。遥香は靴を脱ぎながら、心の中でそっと構えた。何かがある。そんな気がした。
「お母さん、何かあったの?」
遥香が言うと、お母さんは目を伏せて、小さく息をついた。
「遥香……ちょっと大事な話があるの」
大事な話。それがどういう意味か、遥香にはすぐにわかったわけじゃなかった。でも、お母さんの表情を見た瞬間、胸がぎゅっとなった。
「来月、引っ越すことになったの」
時間が止まったような気がした。
「え?」
遥香は耳を疑った。その後の母の言葉は何一つ頭に入ってこない。遥香は何も言えなかった。心の中で言葉を探したけれど、何も出てこなかった。声を出すと、泣いてしまいそうだった。
「ちょっと、自分の部屋行く…」
それだけ言って、遥香は立ち上がり、自分の部屋に行き、ドアを閉めた。
遥香の様子をみて、ナツメは追いかけるのをやめた。
ベッドの上に制服のまま倒れ込む。顔を枕にうずめた瞬間、こらえていたものが一気にあふれ出た。
涙が止まらなかった。布団が湿っていくのもどうでもよくて、とにかく泣いた。
みんなと別れなきゃいけない。ナツメと別れなきゃいけない。
その現実が、あと一か月という期限が余命に思えた。
二時間ほど泣いたと思う。遥香は部屋から出るとテーブルにつき、母の作った夕飯を食べた。食べながら涙がポロポロ落ちる。
ナツメの姿はない。もう神社へ帰ったのだろう。明日どういう顔で会えばいいのか、遥香にはわからなかった。
食べ終わった遥香は黙ってロボットのように風呂に入り、歯磨きをし、寝る前のルーティーンを済ませた。
そしてそのままベッドに倒れこみ、涙をたらしたまま眠りについた。