第一話
「遥香ー。遅刻しちゃうんじゃなーい?」
一階から、母の声が聞こえてくる。
「あーっ、やばい!」
遥香はベッドから飛び起きると部屋に鳴り響く目覚まし時計を止めた。彼女は目をこすると、勢いよくクローゼットを開けて、制服を床に放り投げた。
「昨日遅刻するなってあれだけ先生に怒られたのに。これじゃあ何されるかわかんないよぅ。」
急いで制服を着てササッと髪を整えると部屋を飛び出して階段を駆け降りていった。
「危ないわよ。そんなに急いじゃあ。」
下では彼女の母がまだ暖かい卵とトーストの乗った皿をテーブルに置いた。
「だって急いでるんだもん。」
彼女は口に飯気の舞い上がるパンを詰め込み、こもった声で答えた。
彼女の母はため息をつくと椅子から立ち上がった遥香に歩きよった。すると母は彼女の制服の襟を直し、にっこりと笑って行ってらっしゃいと言ってくれた。玄関から鞄を取り、靴に足を入れて踵を踏んだまま家を出た。コツコツと革靴で足音を鳴らしながら道を走った。
「わっ、ごめんなさい!」
突き当りの角まで走っては人や自転車とぶつかりそうになり、一言ペコリと誤って彼女は走り続ける。赤い郵便ポストの角を曲がり、自転車屋の前を通る。するとあるT字路を走ると開いた横道から風が吹いてきた。
「…神社?」
遥香は風の吹いてきた方向に目をやった。その道の先には木々に囲まれた小さな神社があった。お稲荷様の乗る柱は苔に覆われ、他の物はひび割れたり地面に倒れたりしている。石のタイル状の道は整備されておらず、ところどころ石板が突きあがっている。走っていたことを忘れた遥香は何かに誘われているように神社に足を踏み入れた。吸い込まれるようにして彼女は奥に進み、両側に並ぶ木の間を通って最深部にたどり着いた。そこは立派な建物や建造物は無くただ小祠が置いてあった。祠は古く、他と同じように苔がくっ付いていて、土埃が被っていた。障子は汚れ、白い部分はほとんどなかった。
「遅刻してもそれほど厳しく怒られませんように。」
祠の上の土を払うと、遥香は祠を前に両手を擦り合わせた。そして制服のポケットから飴を取り出し、祠の小さな台に置いた。
「まぁ本当は遅刻したくないんだけどっ。」
すると彼女は振り返り、来た道を走り出した。石板に躓きそうになりながら木々の間を戻って行く。後ろから風に押され、彼女は神社の入り口にたどり着いた。しかし彼女の前にあったのは通学路のT字路ではなく、前には校門が見えた。不思議に思った彼女は神社から踏み出すと校門をくぐった。
「学校…」
はっと後ろを振り返ると彼女がさっき出てきたはずの神社は無かった。残像もなく消え去り、ただ遥香が突然校門の前に現れたかのようだった。出てきたはずの神社があるはずのところはいつも下校中に多くの生徒が横切る公園だった。誰もいない遊具は風に揺らされ、鉄の音が鳴り響く。あまり深く考えずに彼女は校舎に走って行った。下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替える。靴を靴箱に押し込むと急いで階段を駆け上がり、廊下を走った。教室に向かう彼女の頭の中にはもうすでに始まっているホームルーム、そして全クラスメイトが席についている毎度おなじみの風景が写った。
「すみませーん、遅刻し…」
教室のドアを開け、中に滑り込んだ遥香は驚いた顔でその光景を取り込んだ。まだ生徒たちは話していて、席を立ったり、友達の席で話したり、ロッカーに荷物を出し入れしていた。
「おう、珍しく遅刻してないな神崎。」
後ろから担任の大髄先生が廊下から話しかけてきた。
「へっ?」
「でもドアの前で立ち止まるのはよくないな。ほら、ホームルームやるから席に座れ。」
そう言うと先生は遥香の肩をポンと叩き、席に着くようにと指図した。
そのまま足を運び席に着いた彼女は事態がわからないままホームルームが始まった。その後も授業が進み、彼女は一日中神社のことが頭から離れなかった。常に今朝のことを考えていて、授業どころでは無かった。
「ねえ、遥香ちゃん今日ずっとぼーっとしてるよね。」
友達の一人が休憩時間に遥香の席に寄ってきた。
「もしかして、村田くん?」
「違うよっ!…ちょっと朝ね。」
否定しつつも遥香は村田優のいる席に目をやった。他の男子に囲まれている彼は遥香の向かいに住む幼馴染だ。小さいころはいつも遊んでいたのに中学に入ってから疎遠になってしまった。できればまた仲良くしたい。というのが彼女の意志だが、中学生になってから異性と話すのは恥ずかしくなってしまうのが子供というもの。
「ふーん。まぁ、今日は怒られなくてよかったね。」
「うん…」
帰りのホームルームが終わると遥香は下駄箱へと足を運んだ。靴を履き替え、他の生徒と校門を出る。朝見た時とは違い、学校前の公園は近所の子供、その親、そして下校中の生徒たちで賑わっていた。彼女にはまるで朝の出来事が夢のように感じられた。出来るだけ今朝のことは忘れようと思う彼女だったが、結局は同じ神社の前で足を止めてしまう。
「お願いしてみようかな。優くんと仲良くなれますようにって。」
少し期待しながら彼女は人影一つない神社に躊躇わず再び足を踏み入れた。願いが叶うはずない。期待しながらも否定する彼女は朝起きたことを必死に頭の中で理論づけようとしていた。そんな本当に願いが叶うなんて都合のいい事は無い。そう分かっていても、彼女は朝と同じように祠を前にして手を合わせていた。
「ありゃ、鳥さんでも持っていったのかな。」
祠の台には遥香が朝置いた飴が無くなっていた。鳥に取られたのか、あるいは風に飛ばされて木々の裏に隠れているのか。彼女はポケットからもう一つ飴を取り出し、少し残っている土埃をサッと払うと飴をまた台に乗せた。
「私、優くんとまた話したい…」
そう呟いて肩から落ちそうな鞄の紐をかけ直し、また後ろから風に押されて神社を出た。木の下から出た彼女の鼻にポツンと雨粒が落ちた。
「雨…」
彼女が見上げると灰色の空から雨が降り注いだ。最初は優しく、そして強く。鞄を傘のように頭の上にかざし、彼女は家に向かって走った。音も立てずに降っていた雨は家に着く頃にはザーッという雨音を立て、水たまりや雲から降る雨が彼女のつま先を濡らした。雨はますます強くなり、遥香の足元はどんどん濡れていった。革靴のつま先が水たまりに触れるたび、ひんやりと冷たい感触が足元から伝わってきた。彼女は急ぎ足で歩きながら、神社のことが頭から離れなかった。遅刻しなかったのは彼女が願ったからなのか。それとももしかしたら学校での出来事は全部夢では彼女が怒られてないと言う夢を授業中、寝ながら見ていたのか。あるいは朝早起きして体が半睡のまま学校まで歩いて、気づいたら学校に着いていたとか。三つとも信じ難い。考えるほどに胸の奥がざわつく。家まであと少しのはずなのに、足取りはどこか重く、道がいつもより長く感じられた。髪の毛が濡れ、冷たい雨粒が顔を伝う中、遥香は無意識に空を見上げた。灰色の雲が広がり、風が強く吹いている。もうすぐ家に着くのに、なぜだか心が落ち着かない。玄関が見えてくると、ようやく安堵の気持ちが湧いてきたが、くしゃみ一発とともにその心配が蘇り、風邪を引いてしまうんじゃ無いかと思った。遥香が玄関を開けると、家の中からお母さんの声が聞こえた。
「おかえり、遅かったわね。雨、傘なかったでしょう?」
「うん、傘持ってなかった…。」
遥香は靴を脱ぎながら答え、じっと足元を見つめた。冷たい水分が染み込んで、革靴が湿っている。彼女の母は心配そうに遥香を見て、
「風邪ひかないように気をつけなさいよ。さ、暖かいお茶でも飲んで。」
と言いながら、台所からお湯を沸かしている様子だった。遥香は無言で自分の部屋へ向かい、ベッドに腰掛けると、くしゃみを一つした。鼻がむずむずしてきて、すぐにティッシュを取って鼻をかんだ。軽く頭が痛く、何となく体もだるい。ベッドから立ち上がり、机に向かう。そして宿題を机に広げた。頭の中で思うように集中できず、ノートを眺めるだけで時間が過ぎていく。時折、鼻をすすりながら、体をさすりつつ課題を進めた。お母さんが何度か部屋に顔を出して、暖かい飲み物を持ってきてくれたり、課題が終わると母と一緒におでんを温めて夕飯を食べたりした。夕食を終え、遥香は再びくしゃみをしながらお風呂に向かう。湯気が立ち込めた浴室に入ると、温かさが身体を包み込んで、冷えた体が少しずつほぐれていくのを感じた。お湯に浸かりながら、顔に伝う水滴を手で拭うと、今度は体の芯から温まってきた。だが、頭はぼんやりとしていて、湯の中で目を閉じると、朝の神社のことが頭をよぎる。
「風邪なんか引いたら学校で優に会えないじゃない…」
何度か鼻をすすりながら湯船に浸かる。お風呂から上がるとバスタオルで体を包んだ。湯気で曇った鏡を手で拭い、歯ブラシを取り、口に運ぶ。少し力を入れて歯を磨きながら、また神社のことを思い出していた。優くんとの関係はどうなるんだろうか…あの神社にお願いをしたのは、なんだったんだろうと、ぐるぐると考えが彼女の頭の中で巡る。鏡の前で歯を磨き終えると、うがいをし、タオルで顔を拭いた。部屋に戻り、ベッドに座ると、体のだるさがまだ残っている気がした。枕を整えてベッドに入ると、少しずつ眠気が襲ってきた。
「まぁ、遅刻なんて気にせず寝れるのは良いかも…」
そう呟くと遥香は眠りについた。