「普通」をやめました
普通をやめた。
職場で突然泣き崩れ、抑鬱病と診断されてから8年。
途中、抗鬱剤起因の肝炎なんかにも苦しんできた。
けど、それでもなお「普通であろう。普通に戻ろう」と努力してきた。
けど、もう無理。
問題は家族だ。
なにしろ、父も姉も自分さえよければの人で、一緒にいるとストレスが溜まる一方。
当然、そんなのと一緒の環境に身を置いていたら、治るはずの鬱だってが治るわけもなく。
……だからわたしは「普通」であることをやめた。
■ ■ ■
ある日、わたしは普通をやめることを、とある形で家族に表明した。
家族が買い物に出ている隙を突いて、家を壊したのだ。
工具箱から金づちとノコギリを持ち出し、壁に穴をあける。そして柱を切る。
ブレーカーはあらかじめ落としてある。
気付かずに配線に触れたせいで感電。なんて全然面白くないオチにはしたくない。
わたしはDIYなんてろくにやったことのない人間だ。
けど、技術科の授業は好きな方だったし、物を加工するのは楽しい。
破壊するのはもっと楽しい。
柱を2本ほど切ったところで家族が帰ってきた。
本当はもう2~3本切っておきたかった。
けど、さすがに家の柱と言うのは、数十年という時の流れに耐えるように作られているだけあって、堅い。
最初に家に入ってきたのは姉だった。
この姉と言う人間。一応社会人ではあるが、生活費もろくに払わないやつだ。そのくせ家事もしなければ、休日にすることと言えば遊びに出てるか昼寝してるかの二択。その生き様はまるで寄生虫。
「あんたなにしてんの!?」
「家壊してる」
「ちょ!? お母さん来て!」
姉は母を呼んだ。
滑稽なことだ。
わたしがなにをしようが、関係ないじゃないか。
お前がわたしや家族にどんな迷惑をかけようと、わたしはじっと耐え続けてきたでしょう?
「あ、あんたなにしてんの!?」
呼ばれて飛んできた母が、姉と同じようなことを尋ねた。
「壊してる」
「やめなさいっ!!」
やめろと言われてもね。別にこの人には不満はない。
けど、父と姉を放任してるのもこの人だ。
あいつらはなにをやっても許されるのに、わたしがやるとだめ。
差別じゃん。
ねえ。なんで? なんでわたしだけだめなの?
「馬鹿っ! なにやってんだっ!?」
今日3回目の質問を投げてきたのは、車庫入れから戻ってきた父だった。
この親父。
アル中の上に場所を選ばず喫煙するゴミみたいなやつで、大目に見れば付け上がり、注意すれば逆切れする。THE・老害。
自分勝手すぎてわたしどころか、家族全員からも嫌われているのに、そんなことにすら気付けない救いようのないバカ。
早く死ねばいいのに。
父をそんな冷え切った目で見ていると、父はわたしからノコギリを取り上げた。
けど、わたしは別に人間に危害を加えたいわけじゃない。ただ家を破壊したいだけ。
わたしは素直にノコギリを渡した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ。おはようございます森山さん。今日もお庭ですか?」
「……」
蝉の声が聞こえてくる暑い日。ゆるゆると食堂に顔を出したわたしは、相手のあいさつに頷くと、席に着いた。
あの日、「普通」をやめたわたしに待っていたのは、落ち着いた環境で精神の安定を計る。という名目の流刑だった。
比較的涼しい地方の山麓にあるこの施設は、広い敷地と良好な日当たりの清潔感あふれる場所だ。
そこに住む人たちは、みな素直で裏表がない。
そんな微笑ましい環境にわたしみたいなのが混じる。それは本当に正しいことなの?
かなり遅めの朝食を終えたわたしは、部屋に戻った。
そして、帽子、クールリング、タオル。と、身支度を整えてまた部屋を出る。
「シャベル、お願いします」
「あ。はーい」
職員室に顔を出して、預けていた園芸用具を要求する。
「鎌、だめですか?」
「う~ん、ちょっと難しいかなあ」
もう何度目かになるやり取り。
ここに来た経緯が経緯だけに、凶器になり得る物は渡せないらしい。
わたしには人を襲う気なんてない。
けど、それを証明する手立てもない。
もう諦めるしかないか。
「はい。水分はちゃんと取ってくださいね」
激励とともに園芸道具を渡されたわたしは、庭の手入れを始めた。
今と言う季節は、炎天下と呼ぶにふさわしい季節だった。
ジワジワと、聞こえてくる蝉の声。
刺すような日差し。
わたしは植木の陰に入った。
夏に庭仕事をするならここだ。
けど、そうしていると今度はプ~ンと鬱陶しいあの連中が。
わたしは連中から逃げるように日向に出た。
気付けば、山からはブイィィィ......ンと、チェーンソーと思しきエンジン音が聞こえている。
山で働く人のことを、杣人と言うんだっけ?
この暑い中、本当にああいう作業に従事するなんて本当に頭が下がる。
それに比べたら、わたしは……
未だ見ぬ杣人に負けないよう、わたしはまた木陰に戻り、雑草退治に集中する。
地面にスコップをザクッと突き立てては掘り起こし、草を根っこから引き抜く。
そして根に絡んだ土を払い落すと、ゴミバケツへ。
ただそれだけのなんでもない作業。
草の名前なんか知らない。
せいぜいが、イネ科のなにか。タンポポのにせもの。酢漿草。あとはその他、に分類して、で、結局なにもかもまとめて一網打尽にするのだ。
土をいじるのは楽しかった。
とくに根っこが綺麗に抜けた時のあのズボっと感。
鎌があればもっと効率は上がるのだけど、ないならないで別にいい。
すると――
「――ああああっ!!」
なんの前触れもなくあいつらのことが思い出されてしまったわたしは、思い切りシャベルを地面に突き立てた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こんにちは」
今日も庭の草むしりに精を出していたわたしは、ふいにかけられた声に頭を上げた。
すると、フェンスの向こうにいたのは初老の女性が。
「暑い中、毎日精が出ますね」
「……」
わたしは警戒した。
この施設の住人はその性質上、コミュニケーションに難を抱える人が多い。
向こうもそのぐらいのこと分かってるだろうに。
もしかして、わたしのことをここの職員と勘違いしていらっしゃる?
「……」
「邪魔しちゃったわね。じゃ、頑張って」
こちらの正体に気付いたのか、女性はそれだけ言うと去っていった。
■ ■ ■
草むしりを終えて部屋に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
「……」
差出人を確かめもせずに、それを八つにしてゴミ箱に叩き込む。
誰だか知らないが、用があるなら直接来い。
まあ、本当に来たところで、結局は会いもせずにおかえり願うことになるのだが。
わたしはスマホを持っていなかった。
以前は持っていた。と言うか、表向きは今でも持っていることになっている。
けどわたしは、あいつらと別れるとすぐにスマホを破壊。そして川に投げ捨てていたのだ。
あんな物があるから、安らげないのだ。
解約はしていないから使用料は毎月取られ続けているけど、今のわたしにはそんなことよりもあいつらとの接点が減ることの方がよっぽど重要だ。
少し気分が塞がったわたしは、ふらふらと外にを出た。
この施設、ルール上は一人で勝手に出かけてはいけないことになっている。
けど、それが一体なんだと言うのか。
利用者の自由を制限するようなルールは、(たとえそれが、合理的理由に基づくものであったとしても)あってはならないし、もしあっても機能させてはいけない。
それが昨今の風潮と言うものだ。
外に出ると、ちょうどヒグラシの声が聞こえる時間になっていた。
涼し気でちょっと哀愁を感じる合唱を背に、のんびりと歩き出す。
民家の庭に実る柿。
刈り取られた後の稲。
空き地に生えたススキ……
そんななんでもない景色が、荒みかけの心を落ち着かせる。
「……うん」
気分が晴れてきたわたしは帰路に着いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ある日、やることがなくなってしまった。
わたしが毎日のように手入れしていた庭が、きれいさっぱり整えられてしまったのだ。
「以前からお願いしていた業者さんがやっと来てくれたんです」
立ち尽くすわたしに、嬉しそうな職員さん。
なんでも、業者への依頼自体はわたしが入所する前からしていたそうなのだけど、昨今の人手不足のせいで来るのが遅れていたらしい。
「あ。どこへ?」
「……」
行き先を尋ねる職員さんに、わたしはなにも告げずに外に出た。
施設を出たわたしはふらふらと辺りを彷徨っていた。
別に散歩がしたいわけじゃない。やることがなくなったから歩いているのだ。
わたしは鬱を患っている。
抗鬱剤のせいで肝炎を発症してから通院をやめてしまったけれど、治ったわけではない。
沈みがちな気分を紛らわすためには、何にも縛られない作業が必要だった。
そんな人間が、ある日突然仕事を取り上げられた。
「……」
気付けばわたしは山に入っていた。
施設のすぐ隣にある山だ。
疲れた。
なら終わりにすればいい。
この8年。
そうするだけの度胸がなくて、ずっと先延ばしにしてきた、たったそれだけの結論。
幸い、ここなら誰にも邪魔されることはない。
どんどん奥に入って行く。
ふらふらと。なにかに魅かれるように。
「おいおめえ! こんなとこで何してんだ?」
突然の呼びかけに、わたしは頭を上げた。
■ ■ ■
山に入ったわたしに声をかけてきたのは老人だった。
「誰だおめえ?」
よく手入れされた鉈をこちらに向けて、誰何してくる。
山姥ならぬ、山爺だろうか?
「聞こえなかったか? 名だよ、名前。――あんだおめえ、もしかして、耳、聞こえねえのか? それともしゃべれねえだけか?」
山爺は無遠慮だった。
けど、名前は言いたくない。
あいつらと同じ苗字だから。
毎日職員さんから呼ばれるだけでも、ちょっとしたストレスになっていたぐらいなのだ。
「……そま」
杣。わたしは思い付いたままを答えた。
「そま? それがおめえの名か?」
「……」
二度目は答えない。
わたしの名前なんてどうでもいいじゃないか。
それよりも山爺なら山爺らしく、わたしを殺してくれればいいのに。
その気がないなら出てこないで欲しい。
「もういい……わたしこれから死ぬから……殺してくれないならどっか行って……」
「は? んだおめえ? 人ん山にノコノコ入ってきたと思ったら物騒なこと言いやがって。あんでオレがてめえを殺さなきゃならねえんだ?」
山爺は仰天していた。
■ ■ ■
山爺は、わたしが想像したような存在ではなかった。
「おめえよお。勝手に人ん山入ってくんなよ」
という言葉が示すように、この山の持ち主らしい。
そう言えば、少し前に、この辺からチェーンソーの音がしていた。
山爺の仕事はこの山の手入れ。杣人だった。
こんな山でも手入れだけはしておかないと、熊が出るらしいのだ。
けれど、「けど自分ももう齢だし潮時かも知れない」と、山爺。
「あ……」
その話を聞いたわたしは手を挙げた。
彼の言う山の管理とは、おそらく間伐のことだ。
以前聞いたチェーンソーの音や、今持っている鉈がその証拠。
つまり山爺の仕事は「破壊」なのだ。
死ぬことを止められた。なら、せめてわたしに仕事を。
「はあ? おめえが? う~ん……」
わたしの提案に、山爺は悩んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
山に行くことが、わたしの新たな日課になった。
「そんなへっぴり腰で木が切れっか! もっと腰落として、柄は広く使え!」
「馬鹿っ! 調子に乗って振り回すんじゃねえ! 包丁じゃねえんだぞっ!」
「こん大馬鹿野郎がっ! 刃ぁ回してから木に当てるんだよっ! 回す前から木に当ると弾かれっぞ!」
斧、鉈、チェーンソー……道具の使い方を教わり、実践する日々。
「こん馬鹿っ! もっと大事に扱わねえかっ!」
「いいか? どんな木にも刃の通りやすい箇所ってのがある。それを見極めろ。――あ? 『どうやって見極めるの?』だあ? んなもん、てめえで考えろっ!」
「何度も言わせんな! そこはグィンったらガーッだ!」
山爺の教え方は厳しかった。
まだ教わっていないこと。難解な精神論。謎の擬音祭り。
「分かんねえやつだなあてめえも!」
「なんでおめえ、そんなに憶えが悪いかなあ?」
「本当にそれでいいと思うんならやってみな。オレぁなぁんも言わねえよ」
なにかにつけて浴びせられる厳しい言葉の数々。
こんな教え方で理解できるはずがない。
けれど、わたしは投げ出さなかった。
せっかく見つけた「壊すお仕事」。他があるとは思えない。
「今日はここまでだ。さっさと帰えって寝な」
「ありがとうございました」
こうしてわたしは、また一日と忙しい日を過ごしてゆく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今日はもう終えだ。帰えんな」
まだ昼も過ぎたばかりだと言うのに、わたしは山爺に追い返されていた。
あまりの物覚えの悪さに破門、とかではない。
ついさっき、「熊が出た」と防災無線があったのだ。
熊なら仕方がない。
街育ちのわたしには、熊の危険さには実感が湧かないけれど、ゴネたところで熊が消えてなくなるわけじゃない。
施設に戻ると、玄関の前で職員さんと出くわした。
「あ。良かった。丁度呼びに行こうとしてたんですよ」
ほっとしている職員さん。
二人そろって施設に入ると、しっかりと施錠をする。
「熊って、鍵、意味あるんですか?」
「ん~……正直言うと、気持ちの問題、かな?」
ですよね。予想された残念な答えに、つい頬が綻ぶ。
この人は、数いる職員の中でも、特に付き合いやすい人だ。
なにも言わずに外出してしまうわたしにも寛容だし、今だって付近に熊が出没していると言うのに、わたしを探しに行こうとしてくれていた。
わたしも、この人にはなるべく報いるようにしたいのだけど……
「あ。そうそう。実は、お客さんが来てるんですけど……」
「!!」
その一言に、わたしは息が詰まった。
「今、そこの部屋にいるんですけど……」
そう言って職員さんが指したのは、この施設で一番広い部屋。食堂だ。
わたしは冷や汗の滲む手で胸を押さえながら、恐る恐る覗いてみる。
「……」
やっぱりそうだ。
もう二度と会いたくないと思っていたあいつら。
寄生虫は来ていないようだけど、老害と差別主義者が一人ずつ。
「どうします? 一応、面会をお断りすることもできますけど……」
「……お願…し…す……」
消え入りそうな声で伝えたわたしは、2階の自室に逃げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
部屋に戻ったわたしは鍵をかけると、そのままドアにもたれかかった。
動悸がする。目が回る。気分が悪い。
せっかく平穏に生きられると思っていたのに、どうして……
「……」
終わった。
わたしはゆらゆらと立ち上がると、近くにあったテレビに手をかけた。
そしてそのまま持ち上げ、ドアに思い切り投げつける。
ガダンッ! ピ――――ッ! 異常を検知したテレビが奇声を上げた。
しかしそれだけでは、わたしは止まらない。
今度は本棚を引き倒す。
チェストから引き出しを抜き出してドアに投げつける。
散乱した本を拾っては破り、投げ、机もひっくり返す。
「森山さん! どうしました!? 大丈夫ですか!?」
騒音を聞きつけたらしい職員さんが、ドンドンと激しくドアを叩く音がした。
けど、わたしは手を止めない。
もう手を付けた本棚だろうが、チェストだろうが、テレビだろうが。目に留まる物を手当たり次第に攻撃し、投げつける。
「鍵! 急いで!」
部屋の外で職員さんが大声をあげていた。
この施設、非常時に備えて職員室にマスターキーが保管されている。
「森山さん! 大丈夫ですよ! ご家族には帰ってもらいますから! 落ち着いて!」
わたしを宥めようと、職員さんが必死に呼びかけてくる。
ああ、この人。
こんなに良い人なのに。
こんなに親身になってくれるのに。
どうしてあいつらを呼んだの?
わたしは泣いていた。知らないうちに涙が流れていた。
「はっ……はっ……」
ひどくなる動悸。止まらない涙。震える膝。
どうして? ねえ? どうして?
どうしてわたしには味方がいないの?
「うわあぁぁっ!」
ガシャンッ!!
わたしはまだ手付かずだった椅子を投げた。
カーテンが破れ、窓ガラスが飛散する。
「森山さんっ!?」
外では、ただならぬ音に職員さんの悲鳴。
もうここにはいられない。
わたしは最後に部屋を一瞥すると、窓から飛び降りた。
■ ■ ■
施設を脱出したわたしは、山に向かった。
あそこなら少しは知った場所だ。
隠れられそうな場所もきっとある。
良く知りもしない町中をうろうろして捕まるよりはマシなはず。
山に入ると、迷いなく奥へと進む。
この辺りは、最近毎日のように通っている。言わば通勤路みたいなもの。
迷いも不安もない。
もうちょっと行くと、さっきまで山爺にいじめられていた職場に着く。
とりあえずそこまで行こう。
職場に着いたわたしは、真新しい切り株に腰を下ろした。
今、施設はどうなっているだろうか?
さすがにわたしが逃走したことはもうバレているはず。
追っ手がかかる?
あそこの職員なら、最近わたしがこの山に入り浸っていたことは当然知っている。
親切な――と言ったところで、あの人たちもしょせんは金のために働いているだけの連中だ。
ここのままじゃ捕まるのも時間の問題だろう。
もっと奥に。
わたしは立ち上がった。
けれど、そうして先に進もうとすると、向こうの方にキラリ。と、見知った道具が落ちているのが見えて……
「……?」
わたしは足を止めた。
ここはさっきまで山爺と一緒に作業していた場所だ。見知った道具自体はあっても不思議じゃない。ただ――。
あの山爺が、大事な道具を放り出して帰る?
そんなことがある?
にわかには信じがたい事実だ。
行って拾ってみると、ずっしりと、最近手に馴染み始めた重量感。
確かに山爺の斧だ。
意味が分からなかった。
あの爺は、なによりも山や道具のことを気にかける変態だ。
そんな爺が道具をほったらかして帰る。
いくら爺だからって、まだそこまでは耄碌してないはずなのだけど。
と――。
「……? っ!」
突然感じた不吉な視線に、わたしは振り向いた。
■ ■ ■
嫌な気配に振り向くと、そこにいたのは、二つの黒い点がギラリと輝く毛の塊だった。
「あ……」
熊だ。
向こうはとっくにわたしの存在に気付いていたらしい。
こちらが一体何者なのか、値踏みするようにじいっと観察し続けている。
ただ、それ以上に気になるのが、熊の足元に落ちているなにかで。
あれは……?
「……おじいちゃん?」
わたしは呼んだ。
意識せずにそう呼んでいた。
けど、返事はない。
あるわけがない。
だって、熊の足元に転がっているそれは、わたしの知っているあの人とは、全然違っていたのだから。
「ハ……ハ……ハハハ……」
もしかして、これは夢? 冗談?
決してあってはならない事態に、顔がひきつる。
すると、熊が動いた。
逃げもせずにへらへら笑うわたしを、2匹目の獲物と認めたらしい。
「う……」
のしのしと四つの足を使って向かってくる熊に、わたしは立ちすくむ。
熊と出会った時の対処法としては、たぶん不正解。
でもそういうことじゃない。
実際に熊に遭遇して、模範的な行動に出られるやつなんているわけがない。
それに、あの山爺を置いて逃げるのもちょっと気が引ける気がして――。
いや。と、言うよりも、この感情は……
(あれ? わたし今……生きてるって気がしてない?)
迫りくる熊を前に、わたしは笑っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
熊が突進してくるのを見ると、わたしは斧を構えた。
どうせもう逃げるとかそういう局面じゃない。
狙うは目だ。
大抵の生き物の弱点となる箇所。
たぶん、わたしは山爺と同じ運命をたどることになる。
けど、別にそれでいい。
どうせ救いのない人生。ここで終わったところで、誰も悲みはしない。
なら、せめて一矢。
「――いち、にの――さんっっ!!」
わたしは、思い切り斧を打ちおろした。
■ ■ ■
空が青かった。
木々の隙間から見える青い色。今の時期にふさわしい空だ。
声が、聞こえていた。
蝉? コオロギ? キリギリス? 詳しくないけど、とにかく色んな虫の声が、いつもよりもはっきりと聞こえてくる。
「……」
わたしは地面に転がっていた。仰向けになって。大の字で。
熊の突進はとんでもない威力だった。
10……いや。100mは吹っ飛ばされんじゃないだろうか。
こんなの人間が戦っていい相手じゃない。
けど……
「……う……くく……」
わたしは体を起こした。
空が青いと分かる。つまり、わたしはまだ死んでいないのだ。
虫の声が聞こえている。つまり、わたしはまだ生きているのだ。
あれで死なないとか、わたしの身体、頑丈過ぎじゃない?
でも、現に死んでいないから、わたしはこうして立ち上がれる。
なら、わたしはまだ戦える。
「――わ? お? ったあっ!?」
けれど、立ち上がろうとしたわたしは、敢無く転倒した。
さっきの衝突で痛めたのか、右足を上手く動かせなかったのだ。
やる気になった矢先にこれ。わたしは不甲斐ない右足を恨めしく睨みつける。
と――。
「あ……」
わたしは目を疑った。履いていたデニムが赤黒く染まって、裂けている。
実はこれでも骨折ぐらいは覚悟していたわたしだ。
けれど、こういうのは想定していない。
デニムの裂け目から覗いている、見たくないのに目が離せないグロテスクな景色。
全身の血と言う血が冷えて固まってゆくような錯覚に襲われる。
「……うそ……わた……ま……死……ない」
急激に暗くなってゆく視界の中で、わたしはなにかを呟いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を覚ますと、まず視界に飛び込んできたのは、なんの面白みもないただ白いだけの天井だった。
――病院。
ぼーっとする意識の中、それだけは分かる。
視線を横に移すとやっぱりと言うべきか、点滴台に大小のパックが一つずつぶら下がっている。
ピ……ピ……ピ……ピ……。
さっきから聞こえている規則的な電子音。
生きてる。
わたしは目を閉じると、また眠りに落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おはようございます森山さん。今日で退院ですね?」
朝。あいさつをしてくる看護師さんに、わたしは愛想笑いとともに左腕を出した。
検温と血圧チェック、それに採血。これがしばらく続いた朝の日課。
退院は、当初の予定よりも遅れていた。
右半身の胸から腿にかけて負った裂傷の手術自体は成功だったのだけど、その後の治療に使った薬が体質に合わず、肝炎を再発させたからだ。
でも、そんな長かった入院生活も今日で終わり。
「お世話になりました」
午後。
荷物をまとめたわたしは、ナースステーションに顔を出した。
「森山さん。退院おめでとうございます。お迎え、もう来たんですか?」
「ええまあ。施設の方がロビーで待ってくれてます」
わたしはニコニコとうそを吐いた。
本当は、迎えなんて来ていない。
退院のことは誰にも伝えていないのだから当然だ。
「お世話になりました」
わたしはエレベーターに乗り込むと、そこまで一緒に来てくれた看護師さんにもう一度頭を下げた。
「それじゃ、お元気で。もうクマとケンカしちゃだめですよ?」
別れ際にケラケラと笑う看護師さんに、わたしも笑顔で返す。
「それじゃあ、失礼します」
エレベーターの扉が閉まったのを確認すると、わたしは笑うのをやめた。
■ ■ ■
病院を出たわたしが向かった先は駅だった。
誰にも知られずにこの街を出る。
それが、長い入院期間中に決めたこと。
そして、その決め事には実はもう一つ。絶対に外せないことがあって……
わたしは駅に着くと、迷わずに一番高い切符を買った。
目指すは北だ。とにかく北の遠く。
そこまで行けば、こんな所よりももっと大きくて凶暴なやつがいるはず。
そして、そういうやつに出会ったら、今度こそ、わたしは……
「ふ、ふふふふ……」
熊と対峙したあの時の興奮が蘇ってきて、わたしは一人笑った。
<了>