第98話
誓約歴1260年10月初旬
「…… ということで、旧暦の世界には魔法の痕跡が一切認められません。つまり、古い時代にはマナが存在していなかったか、若しくは……」
「誰も知覚できなかったとか?」
「私語を慎め、ここは《《最前列》》の《《正面》》だぞ」
学問に興味を抱く者なら誰もが参加できる公開講義『黎明期』の場にて、右隣から耳元に桜唇を近づけ、小声で話し掛けてきたリィナを咎める。
されども密やかに言葉を交わすため、身を寄せた彼女の体勢も相まって、いちゃついているように見えるのか、考古学の教鞭を執るヴァネッサ女史に睨まれてしまう。
態々、ど真ん中の席に居座り、こいつらは何なんだという妙齢な淑女の蔑視を反射的に避けて、左隣にいるフィアの様子など窺うと澄まし顔で他人を装っていた。
「んんっ、私語の指摘があった通り、かつてはエルフやドワーフもおらず、素養の低い只人のみが人類種だったので、マナを感じ取れなかった可能性はあります」
いずれにせよ、魔法がない故に先史文明では星渡る箱舟、万物を灰燼に帰す原子の火とか、想像の埒外にある諸々を生んだ科学が発達したのだろうと講演者は綺麗に纏める。
その過程で例示されたのは伝承に謳われる神代遺物であり、いまいち逸話に現実味がなくとも旧約聖書に記されている手前、無碍に否定したら司祭の娘が異論を唱えてきそうだ。
(何故に造ったと疑いたくなる代物も多いが、高度かつ危険な発掘品になればなるほど、稼働可能な状態で見つからないのが救いだな)
ただ、何事も例外はある訳で、希少な機械鎧を着込んだ帝国の装甲騎兵が初めて戦場に投入された時には、近隣諸国に多大な被害が出たという記録も残っている。
難儀なものだと考えながら、公開講義の総括に入ったヴァネッサ女史の言葉を拾う傍ら、麻紙に合わせた独自の没食子インクと羽筆を片づけていく。
時計塔の鐘に遅れること十数秒、本時の終了が告げられて騒動しくなり、一部の気忙しい聴講者や学生は早々に離席する最中、 “ん~” と大きく呻いて半人造の少女が背筋を伸ばした。
「偶になら面白いけどさ、毎日は御免かも?」
「むぅ、人目があるのにはしたないですよ」
透かさず奔放な幼馴染にフィアの苦言が呈されるも、肩が凝るのは事実なので庇い立てるように仕草を模倣すれば、三白眼のジト目を向けられる。
「また、リィナにだけ甘い態度を… 私も公平に愛してください!」
「そう言われても、隙が少ないから微妙に難しいな」
「うぐぅ、ジェオ君のためと思い、手抜かりのない言動を心掛けているのにぃ……」
よよと机に突っ伏して法衣の袖口を浅く食み、拗ねている “槍の乙女” に苦笑しつつも手を伸ばして、柔らかな蜂蜜色の髪をポフっておく。
によによと生暖かく見つめてくる外野は気にせず、優しく繰り返すことで口元が緩んだのを確かめてから、彼女が持ち込んだ “昏睡事件” の調査より先に雑事を済ませるため、独り学院の中庭へ河岸を変えた。




