第90話
余分な連れ合いが増えるのを避けて、自ら馬の御者を勤めて入った王都はメドヴェ山脈の南斜面にあり、菫青海に向けて広がる大平原の西部を押さえている。
延いては中東諸国に至る交易路の一端を担い、発展の過程で数多くの産業が集積された結果、学術的な側面でも大いに栄えていた。
「ふぁ、人だらけ、こんなに人間っているんだね」
「そう言えば、リィナって王都に縁はありませんでしたね」
「むぅ、なにそのどや顔、思わず否定したくなるんだけど」
「ふふっ、私は何度か、教会の絡みで来たことありますから」
“どこぞの田舎娘とは違います” と、澄ました口調で宣うフィアの声や、それに対する反駁を仲睦まじいなと聞き流して、黙々と俺は工業区に馬車を進ませる。
派閥の領袖たる宰相閣下が用意してくれた製紙工場の土地は外壁に近くとも、このエクルナが敵勢に包囲される恐れは早々ないので、どさくさ紛れに自分達の住居を優先して建設させたのは公然の秘密だ。
「グラシア紙幣の発行に備えた工場の管轄もあるし、官職の役得と思っておこう」
一応の自己弁護を済ませて、敷地内へ乗り入れると施工中の品質管理を徹底させるため、単身赴任で送り込んだ元庭師の工場長が俺達を目ざとく見つけ、小走りに駆け寄ってくる。
愚痴を聞くのも面倒だと考え、そのまま家屋の玄関口まで馬を歩かせていくが… 苦労人の従僕は諦めることなく追いかけてきた。
「ぜぇ、はぁ… ぼ、坊ちゃん、良くいらっしゃいました」
「出迎えご苦労、手抜きされないよう工事現場の監視に戻れ」
「いや、いや、ちょっとは話を聞いてください!? もうそろそろ、女房が恋しいというか、何というか、地元に帰りたいんですよ!!」
追い縋りながら懇願する相手を見て、恰幅の良い奥方が気侭に自由を謳歌している姿など脳裏に浮かび、少なくない憐れみを誘う。
こちらは慕ってくれる二人を連れてきた手前、すげなく斬り捨てるのは憚られてしまい、馬車を停めると同時に溜息が漏れた。
「分かった、ジラルドと交代させよう」
「え゛、本当ですか! いやぁ~、言ってみるものだ!!」
港湾都市の製紙工場で経理を担う、貿易商の三男坊に白羽の矢を立てると、破顔一笑した元庭師が真鍮の鍵を差し出てくる。
住居の鍵だと判断して受け取り、二本あるうちの片方に多少の銀貨を添え、荷台を覆う幌より出てきた司祭の娘に渡そうとするも、軽妙な手捌きで半人造の少女が奪い去った。
「合鍵、もう一個造ればいいのよね? お釣は駄賃ということで……」
「王都の物価は高いからな、小銅貨で数枚分くらいしか余らないぞ」
「ん~、じゃあ、やっぱり任せる」
「…… それを私が承諾するとでも?」
又も口論という体裁を装い、仲良くじゃれ合う二人に拘うと切りが無いので、我関せずに三階建て家屋の錠を開ける。
その間取りは設計段階の図式と相違なく、寝室にはイルファ郊外の天幕で致した折、敷布にごろ寝するのを嫌がったフィアの要望もあって、無駄に横幅の広いベッドが壁際へ設置されていた。




