第86話 ~幕間:とある下水道にて~
――― 二百年前に出現した大規模な浸食領域 “廃都に至る地下迷宮”。
それを封じる王都エクルナの上水道が張り巡らされ、各所に結界石など仕込まれた第一層の最奥で、立ち入る者のいない空間に途切れ途切れの喘鳴が溶け込んでいく。
「う…ぁ……」
か細い声を漏らす少女の全身には雑な治療跡と真新しい傷が無数にあり、濁って見えなくなった片目や傷口には小蟲が沸いていた。
もはや身動ぎするのも苦痛で、自身を金貨数枚で買い取った屑、加虐嗜好の変態を呪い恨むことしかできない。
「か… えり、たい……」
父親の事業が詰み、借金の形で売られた事実を棚に上げ、衒いのない願望を呟いた直後、彼女の獣耳が二人分の足音を捉える。
「瀕死の獣人、不法に廃棄された奴隷の類か」
「眠らせた山羊よりも使えそう」
「…… お師様、ここまで頑張って運んだのですが?」
「文句言わない、助けられる命は助ける主義なの、分かっているでしょう」
“蕃神の血族たる者、腐ってもただ働きはしないけどね” と嘯いて、覗き込んできた小さな淑女と視線が交差した瞬間、部位によっては色濃く残っている少女の毛並みが逆立った。
爬虫類を思わせる縦長の瞳孔に見つめられ、思わず硬直している僅かな間に何処からともなく、数枚の古びた羊皮紙が取り出される。
「遠い昔、此の身が書き写した『死霊秘法』の断章、美味しく食べなさい」
「むぅ、ぅぐ」
強引に一枚ずつ口腔へ押し込まれた羊皮紙を嚥下すると、鳩尾のあたりからマナで編まれた不可視の糸が幾つか伸びて、近場にいた二人の足首へ纏わり付いた。
その途端に身体が賦活して、死へ向かっていた生命のベクトルが反転する。
「いいわ、すぐ死なない程度には吸わせてあげる。状態が安定すれば生かさず殺さず、貴女の集めた精気を搾取させて貰うけど」
妖しげに微笑んだ師を見遣りつつ、引き締まった体躯の弟子は袋詰めの山羊を下ろして、動けない獣人少女の廻りに隠蔽の結界を組み上げていった。
「むぅ、魔力の供給源をこの子にしたら効率が悪くない?」
「ある程度の実効性を求めるなら、必須かと」
「それもそうね」
こくりと頷いた小さな淑女はドレスが汚れるのも厭わずに跪き、優しい手付きで獣耳ごと頭を撫ぜて、すべてが首尾よく終われば弱者の献身に報いる旨を告げ、暗がりの中で縦長の瞳を輝かせる。
哀れな人狼族の娘が下手を打って早々に狩られないよう、至極慎重な行動を強制する後催眠暗示を十分に施した上、胡乱な目付きの相手など一瞥してから不肖の弟子を伴い、人ならざる怪異は立ち去った―――




