第64話 ~ とある倉庫にて② ~
「発病者は兎も角、疑い出したらキリがないのでは? 疑心暗鬼に陥るぞ、商人殿」
「今回の “壊死を伴う熱病”、その感染源となる恐れは “万人” にありますので、接触に於ける配慮を普遍的なものとして、患者に限定しなければ良いかと」
手洗いうがい、お湯に衣類や食器を浸ける過熱消毒と併せて市井へ広め、周知させるために麻紙の文書を用意したと商人が嘯き、ずずいと評議員に紙束を寄せる。
凡そ四万に及ぶ都市イルファの人口を鑑みると到底足りないが、医療従事者を中心に配布することで一定の効果が得られると、抜け目ない一言も添えられた。
「ありがたく、頂いておこう。しかし……」
「色々と奇抜ですね、消毒の方法とか」
暫し紙面を読んでいた従僕の呟きを拾い、似たような台詞を次代の領主に投げたことなど思い出しつつ、苦笑交じりに港湾都市ハザルの官吏が言葉を紡ぐ。
「簡単に考えてください、人は全身に熱湯を浴びると死にますよね? 伝染病の原因となる微生物も息絶えますし、物質の方は構造が壊れて機能性を失うのです」
「生肉や魚を焼いて食べる習慣も、同じ効果に起因すると若君は言ってましたね」
さらりと補足した商人は小動物から人、人から人に病原体を運ぶ吸血性の虫も衣類等の湯煎によって駆除できると宣い、まさに一石二鳥だと話を纏めた。
僅かな思考を挟み、苦虫を嚙み潰したような表情になった評議員が問い掛ける。
「否定の材料が見つからず、あからさまな破綻もない。ただ、物事の捉え方に大きな隔たりを感じるな… 我々、共和国の人間は文明的に遅れているのか?」
「いえ、うちの若君が変態なだけでしょう」
「まったく以って同意する」
ここ数年、黒髪緋眼の少年は製紙と近郊農業の分野で成果を上げており、表立って文句を言う者がいなくとも、余人には理解できない類の存在だ。
深く頷いた官吏が後を継ぎ、ある程度まで伝染病に係る認識が共有された段階で、次に進むべく筒状に丸めた羊皮紙を懐から取り出す。
「貴都市の評議会より提案を受け、グラシア王が文官に用意させた合意書です」
そう前置きして交渉のテーブルに乗せられた文書は概ね、先方が支援の交換条件とした事柄の範疇に収まり、理不尽なものにはなっていない。
神の名を出した宣誓による裏付けを冒頭に書き、約束の反故と背信行為を紐づけて、実効性を持たせた文書には以下の内容が記されている。
イルファは直轄地ごとヴェネタ共和国からの独立を宣言すること、双方の自衛権に基づく王国軍の進駐を受諾すること、自由な通商を認めて関税も軽減すること。
法的な差の解消に向けた努力を怠らないこと、自治領としてグラシア王国への復帰を検討することなど、多面的な項目がずらりと並んでいた。
「背に腹は代えられないが、帰属を確約するのも難しい。独立宣言は伝染病対策で封鎖を選んだ総督府に邪魔されず、我らが他国の支援を得るための施策だからな」
「ご随意になさってください。旧都市国家の時代は遥か過去、単独の地域のみで栄華は維持できませんよ。最終的にこちらを選んでくれれば良いのです」
薄く微笑んだ官吏が領主の受け売りで見栄を切り、ほぼ出来上がっていた諸条件の合意書に日付を入れて、都市イルファを代表する評議員の男に差し出す。
躊躇いはあれども、署名に続けて評議会の公印が押され、近いうちに公然となる内密の約定は滞りなく結ばれた。
キリスト圏でもイスラム圏でも、中世の条約文書などは神への宣誓から始まります。それを破ると宗教勢力を敵に回すことになり、統治の正当性や民の信頼を失うため、結果的に約束は守られるという次第です。
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