第60話
軽いノックと声掛けを済ませ、装飾過多な父の仕事場に足を踏み入れると中央政府の高官らしき御仁がいて、値踏みするような鋭い視線を投げてくる。
その人物は洗練された仕草で客席を立って歩み寄り、右手を差し伸べてきた。
「王の傍で政務に携わるマークス・ガルバだ、紙商人たる君の噂は兼ねがね…」
「過分な褒め言葉、ありがたく頂いておこう、官吏殿」
衒うことなく求められた握手に応じて、執務机に肘立てながら両手の指など組み合わせている我が父ディアスを窺えば、口調を改めるように咎められてしまう。
一般的な官僚は治めるべき領地を持たず、厳密に言うと大半が貴族ではないため、あまり遜る必要性は感じなかったものの、些か早計だったかもしれない。
王命を直接賜るのも可能だという側近の一人に非礼を詫びて、客人の対面に位置する席へ着いた。
こちらの動きに応じて相手も座り直したところで、俺に羊皮紙の束を掲げて見せた父が本題へ言及する。
「宰相閣下の書簡を読む限り、陛下は《《旧領》》支援に乗り気のようだ」
「高祖が頓挫した湾岸部の領土拡大を望める好機、しかも過去のような侵攻ではなく、身内に見捨てられた都市イルファの要請がありますからね」
十数年前に西方大陸で猛威を振るい、夥しい死を振り撒いた伝染病と類似する患者が件の都市で出始めたのは昨夏、秋冬の期間を通じて感染者の激増が起こり、半島国家ヴェネタの総督府は地域一帯の全面的な封鎖を強行した。
斯く言う自領も国境を挟んだ隣接地なので、触らぬ疫病神に祟りなしと領兵隊で陸路を押さえていた訳だが、都市評議会の交渉人を乗せた商船の寄港を認めて現在の状況に至る。
「引き続き、沖に留めた船舶での折衝は卿ら親子に任せる。勿論、具体的な救援の陣頭指揮や、彼らが共和国と “縁を切る” 手伝いもだ」
「既に形骸化しているとは謂え、ヴェネタ建国時の旧都市国家に独立宣言の権利を与えたままなのは、迂闊としか言い様がありませんな」
呆れ顔になった父の指摘通り、本来なら廃止されて然るべきものが残っていたのは、古参と他の都市を差別化する歴史的な意味合いだけではなく、住民投票に於ける実現可能性が低いためだ。
ただ、伝染病の封じ込め政策で廃絶の危機に追い込まれた者達の怒りは凄まじく、過去に周辺の支配権を得ていたこともある王国に対して、物的支援と独立後の庇護を求めている。
「交換条件に出された幾つかの権益で投資分が回収できるのか、不明瞭な部分は大きくとも係争地を取り込む糸口になります。悪い話ではないかと……」
最初の接触から何度も考えていた事を呟けば、政府高官の御仁が口端を歪めた。
「併合まで首尾よく辿り着いた場合、編入先は隣接する貴領だからな、精々頑張ると良い… とは閣下の伝言だ。宜しく頼むぞ」
察するにマークス氏も我々と同じく、後ろ盾になる寄り親は宰相殿らしい。
何かの折、また顔を合わせる機会もありそうだと思い、室内より立ち去る背中を最後まで見送った。