第37話
ただ、相変わらずの難色を示している相手は無言のまま、納品前の聖母子像が置かれている工房の一角を指さした。
「見てわかる通り、木彫像が専門だ。交子のように精緻な図柄を描ける技量なんて、都合よく持ち合わせてない」
「それは俺が描こう、多少の心得はある」
「お前… いや、止めておこう」
言葉にせずとも “まだ歳を重ねていない餓鬼が何言ってんだ” と、怪訝そうな顔に浮き出ているが、素知らぬ振りをして話を続ける。
「図柄さえあれば、彫ることに問題はないんだろう?」
「そうだな、領主貴族には恨みがあっていけ好かないものの、ちょいとばかり伝手を拝借できるなら、仕事として引き受けてもいい」
僅かに首肯したジャン氏は過去に居丈高な貴人の依頼を拒み、華国の故郷より追放された経緯を少しだけ話題に上げてから、思い出したように俺の出自を問う。
王国南部の港湾都市ハザルを擁するウェルゼリア領主の嫡男だと、明確に答えてやれば自席を立ち、壁際にある棚まで向かった。
雑多に見えて物の配置は頭にあるようで、迷わずに埋もれていた樫の小箱を取り出して、大事そうに持ってくる。
「産後の肥立ちが悪くて亡くなった妻の形見なんだが、保管状態の宜しくない時期があったのと、幼い頃の娘が用途も分からず粗雑に扱ってな……」
若干、言葉を濁しながら開かれた小箱の中には、麻の敷布と銅製の手鏡が納められており、よく見ると鏡面には無数の傷が付いていた。
不易流行を意識した良い意匠の装飾品なので、どうにも勿体ない気がする。
「これを綺麗に修復できる職人を探してもらいたい。どいつもこいつも、普段使いで必要なら新品を買えなんて、くだらない寝言を抜かしやがる」
当時の記憶によるものか、ひとり憤慨するジャン氏に断りを入れてから、その劣化度合いを調べるために手鏡を掴んだ。
「銅鏡の部分、かなり鍍金が傷んでいる。上乗せしても早々に浮いて剥離するだろうし、下地を整えるための除去も難しい。買い替えた方が賢明だぞ?」
「…… いい性格をしてるな、坊主」
「ふふっ、そこがダーリンの良いところ♪」
「痺れませんし、憧れもしませんけどね」
透かさず合いの手を入れたリィナに便乗して、フィアまで揶揄してくるも捨て置き、過去の錬金術師や識者らが有していた知識を総動員する。
手鏡の鍍金は一般的な錫であり、酸性溶液とアルカリ性溶液のどちらでも除去できるが、銅合金製の本体を考慮した場合、諸共に腐食させる前者は注意が必要だ。
(だからと言って、現実的に調達可能で使えそうなのは緑礬の乾溜で得られる “硫酸”、それと硝石の混合物を蒸留して精製する “硝酸” を薄めた水溶液か……)
低い濃度の順に類似品の銅鏡で試しながら手法を確立させた後、本命の手鏡から錫の鍍金を取り払って、下地も均した上で再塗装すれば問題ない、と思われる。
※ 現在も様々な工場で使われている硫酸の発見は歴史的快挙だと思います。元々、化学は中東で発展した経緯がありますので、そちらの功績となります。長いスパンでで歴史を見た場合、欧米の躍進は大航海時代以降の500年ほどですから、また世界の中心は変遷していくのかもしれませんね。