皇妹殿下
見開かれた青の隻眼に映る、まるで鬼のような自身の形相。それを認識するよりも早く、彼の間合いに入った事実を悟った。
「はっ、確かに本気だなッ!」
次の瞬間ルアの左脇腹目掛けて力任せに木剣を薙ぐ。「ぐッ」と呻き声を漏らしたまま片膝をついた彼に向かって剣を振りかぶったが間一髪身を翻して躱されてしまい、直ぐに足払いを察知して跳躍すれば丁度脛があった辺りを風が切った。
そうして着地と同時に剣を後ろに投げ上半身を後ろに倒す。そのまま両手で勢いよく地面を押しやった反動を利用して後転すれば、ルアとの間にかなりの距離が開いた。
「はっ、は」
剣を取り乱れた呼吸を整える。最初は受け身ばかりだった目の前の男も肩を小刻みに上下させ苦悶の表情を滲ませているところを見るに、脇腹への一撃がだいぶ堪えているらしい。
「っ、腹を狙ったのは俺の真似か」
「せーかい」
額に玉汗を浮かべながらなおもこちらを鋭く射抜く青い隻眼。ぞくりと背筋が粟立つのを感じつつ不敵に笑って見せれば、ルアの眉が僅かに動いた。
それを認識してから、僅か3秒。
「はっ!!」
ガンっと鈍い音と共に剣が拮抗する。先に間合いを詰めた自身の一撃を受け止め続ける男の顔は、食いしばった歯を剥き出しにする獣のようなもの。対してなおも力を込め続ける自身もまた相当酷い顔をしているに違いない。
腕が小刻みに震え、地を踏み締める足の感覚がだんだんと遠のく。ありとあらゆる感覚を他人事のように感じながら鬩ぎ合う剣を斜め下へと押しやった、次の瞬間。
ほんの一瞬だけ、腕が軽くなる。
「ッ!!」
そうしてルアの首に鋒が当たっていることを目視すると同時に感じた、自身の首筋に突きつけられた木の感触。
「そこまで!」
終了を告げる声がどこか遠くから響く。しかし大きく鳴り止まない心臓の音と呼吸音だけが辺りを支配する中で未だ剣を下ろすことが出来ずにいればふと、首元から硬いものが遠のいた。
「引き分けだな」
そう呟いたルアは張り詰めていた力が抜けたかのように地面に座り込む。遠巻きに見ていた団員たちが次々と駆け寄ってくる中、ソルは銀髪の男を黙って見下ろしたまま。
片目だけという不利を抱えているにも関わらず自身と互角など、やはりルアはその頭脳を駆使して剣を捌いているらしい。自身には真似出来ないそんな所業に対しむず痒い気持ちのまま銀髪をくしゃりと撫でれば、特に嫌がるでもなく黙ってこちらを見上げる青い隻眼と目が合った。
「なんだ」
「いや、お前が馬に乗れてれば俺は完全に負けてるだろーなと思って」
「は、俺が勝てないくらいに強くなるんじゃないのか」
「ははっ、懐かしいな」
吹き込む春の風が火照った身体を落ち着かせていく。
汗が冷水にも感じられる心地良さを覚えながら昔話を思い出していれば「いてえ」と、消え入りそうなほど小さく呟かれた男の声が耳を掠めた。その方向に視線を移せば、ルアが左脇腹を摩る様子が目に映る。
思わず口から心配の声が漏れそうになったものの、攻撃を喰らわせた自身からの言葉など彼にとっては侮蔑以外の何物でもないことくらい解っている。そんな我慢強い男に声をかける代わりにもう一度髪を乱せば、今度は何を言うでもなくルアは正面を向いたまま。
「相変わらず2人の手合わせは殺気立ってておっかなすぎるな。特に団長、副団長のこと殺さないでくれよ」
「んだよ引き分けかよ〜。俺のパン返せや」
「俺らで賭けてんじゃねーよ」
いつの間にか周りを取り囲んでいた仲間に対しそう返せばわはは!と場が湧き上がる。そんな明るい光景に自然と笑みが溢れつつルアに手を伸ばせばすぐ、手袋越しに僅かな重みを感じた。そうして少しばかり引っ張れば彼はゆっくりと立ち上がる。
「あーあ疲れた、休憩がてら散歩行ってくるわ。お前も行くだろ?」
「ああ」
そうして先に歩き始めれば「新婚みてえだな」と茶化す声が遠くから届く。振り返って舌を出せばやれやれと言いたげに訓練へと戻っていく団員が目に入った。
そんな彼らに背を向け訓練場から遠ざかれば、辺りに響くのはただ草を踏み締める音だけ。そんなゆっくりと流れる時間の中、先にぽつりと言葉を溢したのはソルの方だった。
「ほんとお前すげーわ。右目の代わりなんて必要ねーな」
「なんだそれ」
「ん、独り言」
そう返せば無言のままルアが前に向き直る。そんな男をぼんやり見つめるソルの表情は、眉尻の下がったなんとも言えない笑顔で。
7年前、ルアの右目が見えなくなった日。あの時自身らはおそらくまだ10代半ばだった。
中でも未だ鮮明に蘇る、昏睡から目覚めた直後の我を失ったルアの姿。耳にこびりつく絶叫も泣き叫んだ血だらけの顔面も、今でも思い出すだけで左胸が締め付けられるほどに痛々しいものだった。
視力を失い錯乱した彼を押さえつける手のひらの感触でさえ、思い出そうとすれば容易に蘇る。
そんな中で密かに決意した『とある事』はルアにさえ打ち明けてはいないが、回復した彼はその決意さえも打ち破るほどに前を向いていたのは懐かしい思い出。
「これ以上行けば皇宮に着いてしまうな。戻るぞ」
ふと意識を引き戻され前を見やれば、いつの間にか大きく聳え立つ皇宮が目に入った。これほどの距離をぼんやりと歩いていたことに若干驚きつつ踵を返して歩き始めた、その時。
「あら、もしかしてもう試合は終わってしまったかしら」
背後から届いたのは、まるで鈴のように透き通った声。瞬間反射的に振り返り、咄嗟に深々と頭を下げた。
「殿下にご挨拶申し上げます」
「もー!堅苦しいの嫌いよ」
まるで花が咲いたような笑顔を浮かべながら2人の前に立つ、一人の女性。彼女こそ帝国で唯一『殿下』と呼称されるディランの妹君、ソフィアだった。
ディランよりも少しばかり明るい赤茶髪は後ろで一本に纏められており、彼と同じエメラルドグリーンの瞳はどこまでも澄んでいる。顔立ちまでもがディランの面影を感じさせるほどに似通ったもの。
そして似ているのは内面も同じであり、ソルらよりも少しばかり年下でありながら確かな芯が通っているところなど、まさにディランそのものと言っていいだろう。
「殿下、何故このような所までお越しになられたのですか?」
「貴方たちの試合をしていると聞いて急いで来たの。もう終わってるなんて残念」
「それは大変失礼いたしました。また機会があれば、是非ご覧ください」
そうしてルアが頭を下げる。しかし彼とそんなやりとりをする殿下を見ながら覚えた、とある違和感。
「というか殿下、護衛は……」
「振り切って来ちゃったわ」
兄様に怒られるわね、といたずらっ子のように笑った殿下に見た、陛下の面影。やはり兄妹なのだと感心さえ覚えていれば、不意に彼女が小さく口を開いた。
「ね、2人とも時間あるかしら」
そんな思いもよらなかった言葉に首を傾げる。そんな自身らの姿に「ふふ」と溢した殿下が続けた言葉は、さらに上をいくほど予想外なもので。
「ちょっとお喋りに付き合って欲しいのだけれど、訓練抜けられない?」
「え、俺達とですか?」
思わず口から溢れる砕けた言葉。次の瞬間勢いよく左脇腹をルアに肘で殴られたものの、殿下は特に自身を咎めるでもなく「そうよ」と言葉を返す。
しかし何故平民、ましてや男である自身らと『お喋り』など……。
「侍女がいるのに、って言いたげね?」
「っ」
「でも、貴方たちなら分かるかもしれないことを聞きたくて」
ダメかしら?
そう言われてしまえば、というか元より断るなどという選択肢は存在していない。二人同時に頭を下げ肯定の意思を示せば満足そうに微笑んだ気配が伝わってきた。
「宮まで歩くのは大変だと思うけれど」
「とんでも御座いません。殿下こそ大丈夫なのですか?」
「もちろん。私体力には自信あるのよ」
そうして軽い足取りで皇宮へと向かう殿下の後ろを着いていくようにして、二人は再度訓練場に背を向けて歩き出した。