ファウラー公爵
代々四公爵の一角を務めるファウラー公爵。
その当代の当主であるイーサン・ファウラーは雪のような白髪に落ち着いた甘いイエローグリーンの瞳を持つ男性であり、27歳にしては少々童顔にも見える穏やかな顔立ちや紳士的な振る舞いも相俟って、民からの信頼も厚い。
加えてよく皇宮へと足を運んでいるため他の公爵とは違い、ルアやソルとも面識があった。
「丁度よかった。分かれば教えて頂きたいのですが、今陛下は部屋にいらっしゃいますか?」
不意に紡がれた、春の陽のように心地良い声が耳朶を打つ。こちらに対し丁寧な質問をしてきたイーサン様が淡く口角を上げるのを認識したのも一瞬、自身の口から「いらっしゃいます」と反射的に答えが飛び出した。
「ありがとうございます。もしかして、陛下の部屋から戻るところで?」
「はい。失礼ですが、閣下もご用事ですか?」
「ええ。再来週の公爵会議の前に陛下のお耳に入れておきたいことがありまして。それよりも」
そうして一瞬言葉を区切ったイーサンはルア、ソル両名へとそれぞれ視線を移すと首を緩く傾け、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「僕は運良くこの立場にいるだけですから、そんなに気を遣わずともいいのですよ」
「っ……」
思いがけない言葉に瞠目した2人に対し「そんなに驚かなくても」と眉尻を下げた笑顔を向けたイーサン。しかしまさか貴族が平民に対してそのようなことを口にするとは思っていなかったために、言葉を噛み砕くのにも少しばかりの時間を要した。
そして一瞬だけ引っかかった『運良く』は、おそらく貴族として生まれたことを指しているのだろう。
「……かしこまりました」
「ほら、また。まあでも堅くなってしまうのも仕方ありませんね」
その言葉にどう返事をしようか逡巡していれば「ああ、そうだ」と、思い出したようにイーサン様が続ける。
「最近、第一騎士団のベギンズ卿が襲撃に遭ったそうですね。知っていますか?」
「存じております」
先ほど陛下の部屋で話に上がったカルラ様の襲撃事件。このタイミングでそのお話をされたということは、陛下への話というのもその件についてだろうか。
そう推測してみるものの、どちらにせよ自身はまだ関わることの出来る立場にない。
「貴族でさえ襲われてしまうなど何かと物騒ですから、お気をつけを」
不意にかけられた声ではたと我に返れば「では、また会いましょう」と残してイーサン様は陛下の部屋へと歩いて行かれた。その背中を角を曲がるまで見送り振り返れば、そこには不思議そうな表情を浮かべこちらを凝視するソルの姿が。どこか難しそうな感情が滲み出ているような彼の顔を黙って見ていればぽつりと、不意にソルが口を開く。
「ルア、ファウラー公爵様の前ではよく喋るよな」
「……そうか?」
言われて気が付いたのは、先ほどの会話の際イーサン様と言葉を交わしていたのは自身のみだという事実。普段であればソルの方が話していそうなものなのに。
「あの人そんな話しやすいか?」
「言葉に気をつけろ、ソル。まだ皇宮内だ」
「誰も俺らの会話なんて聞いてねーって」
どちらからともなく足を進め、長い廊下を歩き始める。しかしルアの頭を占めるのはやはり、気付かぬうちに回っていた自身の口に対する驚きと、どことなく居心地の悪いような感情。
「まあ確かに話しやすい人ではあるよな。他の貴族サマとはなんか違うっていうか」
「……そうなのか」
だがイーサン様に対してとりわけ話しやすさを覚えたことはない。ならば、一体何故だろう。
彼があまりにも穏やかだからだろうか?
──それとも、彼がどことなく陛下に似ているからだろうか。
「……いや、違うか」
脳裏にふと浮かんだ言葉を否定するように、ルアは緩く瞼を伏せる。
陛下とイーサン様では纏う雰囲気も話し方もまるで異なっている。それでも浮かんだ言葉を完全に否定することが出来ないのは、どこかもっと深いところで似通ったものを感じることが多々あるからだろう。
そんなこと考えつつ自然と足が止まれば「具合でも悪いのか?」とすぐさま降ってきた声で意識を引き戻される。
「大丈夫だ」
「ほんとか?休むなら部屋に戻っててもいーぞ」
「大丈夫だと言っている」
未だ脳裏にこびりつく考えを掻き消すように語気が強くなってしまったものの、特にソルは意に介していないようで。そんな彼を一瞥した後、ルアは意識的に別のことへと考えを巡らせる。
イーサン様。今日お会いした際の雰囲気はやはり、以前と変わらずどこまでも紳士そのもの。
ならばやはり、ソフィア殿下の結婚相手は彼になることだろう。
「そんな難しい顔してんなよ。早く訓練戻らねーとまた茶化されるぞ」
ふと、いつの間にかこちらを覗き込んでいたソルと目が合った。一瞬視線を合わせ直ぐに逸らし、そのまま何食わぬ顔で彼の横を通り過ぎれば「置いてくなって!」と叫ぶ声が聞こえる。そんな『いつもの』やり取りに無意識の安堵を覚えつつ、2人は足早に訓練場へと戻って行ったのだった。
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「あー疲れた!サボってたわけじゃねーのに言いがかりつけてきやがって」
「お前だけやたら攻撃されていたな。もっと皆に優しくしてやったらどうだ」
「俺はいつだって優しいだろ!」
皇室騎士団宿舎の相部屋に辿り着くなりベッドに四肢を投げ出し伸びをしたソルと、汗で張り付くインナーを脱ぎ慣れた手つきで眼帯を外したルア。気が抜けたせいか身体の節々に現れ始めた鈍痛と肌に直接当たる夕風を感じていればふと、ベッド上から視線を感じた。
「いつも思うんだけどよ。お前のそれ、やっぱ痛いのか?」
トントンとソル自身の右目を指しながらこちらへと投げられた質問。それに倣うように開かない右目に指を滑らせれば、そこから伝わる固い皮膚の感触。
「別に、もう痛くない」
「そうか。ならいいんだけどよ、あん時のお前ほんと見てられなかったからな」
その言葉でふとルアの耳元に蘇る、叩きつけるような雨を切り裂いた銃の咆哮。
7年前のあの日、運悪く右目を掠った銃弾は自身から片目の視力を奪っていった。だがそれでも頭部を貫くには至らなかったこと、眼球を失わずに済んだことは不幸中の幸いと言えるだろう。
そんな右目の瞼を無理やり持ち上げたところで、薄らと光を感じる程度の視覚しか残されてはいない。もう長いこと左目のみで生活しているため慣れたものではあるが、当時は物体との距離すら掴むことが出来なかったのだ。
「あんな経験はもう御免だがな」
「大出血だったもんな。熱も長引いてほんと、思い出したくねーな」
「話始めたのはお前だろ」
まるで自分のことのように顔を歪めたソルを一瞥し濡らしたタオルで身体を拭いていれば「しっかしなー」と、彼は再度話を始める。
「お前の顔めちゃめちゃ怖かったんだぜ。東洋の言葉でなんて言ったっけか……あ、『鬼』だ」
「なんだそれ」
「ぴったりの言葉だろ。撃たれても相手を斬るまで止まらなかったところとかマジで」
そんな言葉を、ルアはどこか他人事のように聞き流す。
それもそのはず、被弾する直前から右目が包帯で覆われるまでの間の記憶がルアにはほとんど残っていない。その時の記憶だけがまるで空洞のように抜け落ちてしまっているのだ。
処置をした医者の話によれば『強いショックを受けたために頭が麻痺した』とのことで。
「……前にも言ったが、俺は覚えていない。もういいだろ」
「悪い悪い」
そう笑ったソルに対し呆れた視線を向け続けたのも束の間、天井をぼうっと見やった彼からふと笑顔が消える。
「最近やっと平和になってきたと思ったのにな〜」
まるで遠くに言葉を投げるようにぽつりと呟いたソルだったが、ゆっくりと顔をこちらへ向けた彼と再度目が合った。
「もう誰にも、お前にも怪我してほしくねーんだよ。この仕事している以上無理だけど」
「ああ。俺らは、陛下の手足になるのが役目だからな」
そう返事をしつつ自身もベッドに横になれば「お互い長生きしよーぜ」と、笑い声の中にどこか掴めない感情が乗せられた声が横から届いた。それがいつもの軽口ではなく本心であることくらい、長い時を共に過ごしてきたルアには分かっている。
被弾した後、次に目を覚ました時に真っ先に左目に飛び込んできたソルの顔は今でも忘れない。
怪我を負ったのはこちらであるというのに、自身よりも痛く、苦しそうに歪んだ焦燥しきった顔。その中に安堵が滲んだあの瞬間の表情も、おそらく忘れることはないだろう。
「……あ、だめだ、飯」
そんな小さな呟きで横を見やれば、いつの間にか寝息を立てぐるりと反対側を向いたソルの姿が目に映った。そんな彼に呆れを覚えつつ、自身も少し仮眠を取ろうと瞼を伏せる。
ソルの言うように『怪我をしてほしくない』のはルアもまた同じ。しかしそれでもあの日、あの場所から彼らを掬い上げたディランのためなら命さえ惜しくはないと、そう誓ったのだ。