魔法のガラス
「っあー、やっぱり俺らには外の空気が合ってるな」
「……ああ」
伸びをしながらそう溢したソルに相槌を打ちながら、真上より若干地に近付いた太陽の下を揃って歩く。既に振り返っても白いその姿が確認出来ないほどには神殿から離れており、今更ながらようやく日常に戻った心地がしていた。
そして再び被り直した仮面により狭まった世界の中、ルアは埃っぽさを感じるいつもの空気を吸い込む。俗世と切り離されたあの荘厳な空間の空気は、どうやら自身らにとっては綺麗すぎたらしい。
そんなこと考えつつ自身よりも少し前を行く背中を追い、市街地へと差し掛かった時ふと、遠くから届いた賑わいの声が耳を掠めた。
「あ、市場だ。この時間にここ来ることねーもんな」
振り返りながらそう口にしたソルの言葉通り、少し先に見える大通りには露店がひしめき合うように並んでいる。皇宮付近の大通りでも見られる光景ではあるが、それが立ち並ぶ時間帯は自身らは訓練中であることがほとんど。
「せっかくだし寄ってこーぜ」
「仕事中だぞ」
「真面目くんだなホント。買うわけじゃねーし、ただ通りがかるだけ、な?」
眉を上げ得意げな笑みを浮かべた彼にため息を一つ。心なしか浮き足立ったその背中を追いつつ、店頭に並んだ青果やらパンやらを吟味する賑わいの中に入っていった時だった。
「ん、なんだあれ?」
ソルの言葉で意識をそちらに向けた時ふと、とある露店に並べられた商品が光を発しているのが目に入った。そのまま無意識で足が吸い寄せられたが、光を反射する商品の前に置かれた札を見て「はっ?」と隣から驚声が上がる。
「とんでもない値段だな。俺らの給金じゃ買えねーや」
「はは、なあに、大抵の人はそうでしょうな」
不意に届いた声と共に店の奥から顔を覗かせた、白髭を蓄えた露店商と思しき老人。そして彼の前に並ぶ件の商品は、緩く曲線を描いた丸いガラスのようなものであり、指先に乗るほどの大きさのそれはよく見れば青、緑、オレンジなど薄く着色がされている。
「大抵の人はって、買わせる気がねーのか?」
「こんな風に目を引く商品を置いておけば、他のも自然と目に入るじゃろ?」
言いながら、露店商はしてやったりとでも言いたげに目を細める。
つまりあえて高い値段を設定し、それ以外の安い品を買わせようという魂胆らしい。そんな戦略に対し「いい商売してるな」とソルが返せば、露店商は「年の功というやつですじゃ」と満足げに目を細めた。
ところで薄ら色の付いたこの小さなガラスは、一体何だろうか。
そんな疑問が口にせずとも漏れていたらしく、露店商は予想通りとでも言うように口角を上げると一言こう説明した。
「これは、目の色を変えることの出来る代物じゃ」
「……目の色を?」
次の瞬間仮面越しでもはっきりと分かるほどにルアの表情が怪訝で満ちる。人間が持って生まれた目の色を、変えられる術が存在すると言ったのか?
「へえ……じゃあ俺の目も、こいつみたいな色にできるのか?」
「もちろん。青は、この辺りがいいじゃろうな」
そうして指し示したのは青く着色が施されたガラス。次の瞬間それを目の中にあてがった彼を見てソルが「おいっ!?」と驚きの声を上げたが、露店商は構わず数回瞬きを繰り返す。
そして次に開かれた瞼から覗いたのは先ほどまでの瞳の色と全く違う、ルアにも似た青の瞳。
「っ、すげーな、魔法みたいだ」
「その通り。ワシらはこれを『魔法のガラス』と呼んでますじゃ」
そう言いながら、露店商は手早くガラスを目から取り除く。
次にこちらと視線を合わせた元通りの瞳は、この世に魔法なんてものがあればこのような感じなのだろうと、漠然とそう思わせるには十分なものだった。
しかし、ここで単純な疑問が湧き上がる。
「……こんな奇妙なもの、自分達だけで作れるのか?」
「まあ、何人か職人を召し抱えていてな。これでも20年は作っているんじゃ」
「……長いな。なら、だいぶ金がかかるんじゃないか?」
一介の露天商が、そんな奇抜で大層なものを作り出すことが可能なのだろうか。そう思って問い掛ければ露店商は一瞬ソルへと視線を移し、次に見定めるような視線でルアを上から下まで見やる。
「皇室騎士団殿のお連れであれば、言ってもいいじゃろうか」
「おいおい、こいつも──」
「ソル」
その一声ではたとソルが口を閉ざす。そうしてわざとらしく咳払いをした後、こちらへ向かって「悪い」と口だけを動かした。
ルアの部隊である『鷹の月』は、ソル率いる『鷹の太陽』とは違い夜間の情報収集が主。そのため皇宮へ頻繁に登城する貴族以外には存在すら知られていないことが多く、本人たちも所属を明かすことは基本ない。
だからこそ民衆には皇室騎士団=白い制服のイメージが定着しており、さらには仮面も手伝ってルア達は『皇室騎士団に付いて回る謎の人物』という印象を持たれることが多いのだ。
「……話を遮って悪かったな、続けてくれ」
「ええ、実はさる御仁が、この『魔法のガラス』に多額の出資をしてくれていてな」
声を潜め、自身らの背後を警戒するように視線を右から左へ移しながら露店商はそう答えた。商売のことはよく分からないが、これほどの値を付けるということは作り出すのにも金がかかるはず。
加えて続けられた話によれば、その御仁は何年も前から定期的に出資をしているようで。
「へえ、そのゴジンってのは何者なんだ?」
「それが手紙のやり取りだけで、ワシも会ったことはないのじゃ。名は確か、アーサーと言ったかな」
「……じゃあ、これを買う客は誰かいるのか」
そう質問すれば「おりますとも」と、顔を少しばかり上げた露店商はあえて大きな声で返事を寄越した。どうやら聞かれてまずい話は終わったらしく、まるで先ほどまでの会話が全てなかったように話を続ける。
「ちょうど、貴方様くらいの背丈のローブを被ったお客がおりますじゃ。仮面をしているから顔を見たことはないが、よく本店まで足を運んでくださる」
そう言いつつ、彼はソルを見上げながら指し示した。しかしこのふざけたような値段に手が出せるとは、おそらく余裕のある貴族か成金の地主あたりが面白がって買っているのだろう。
だとしても使い道が特殊である以上、買い手の人数はさほど多くはないのではないか。なら『アーサー』という人物は、一体何の利益があって出資など行なっているのだろうか。
「……金持ちの考えることは分からんな」
「だな。でもなんか、変装とかに役立ちそうだぞ」
緑色の瞳を指さしながらソルはそう口にした。確かに仮面で顔を隠しているとはいえ、流石に瞳の色まで変えてしまえば自身を特定される心配はないだろう。
しかしそう考えたのも束の間、次に届いた露店商の言葉でそれは難しいと悟る。
「おっと、これはあまり激しい運動には向かないものでな。下手すれば割れて目が傷ついて、失明の恐れもあるからの」
「ちょっと待て。そんなこえーもんよく売れるな」
「あくまで余興程度に作っているからの。まあ、自己責任じゃ」
そう言ってからりと笑った露店商に思わず肩を竦めた。金持ちの考えも理解出来ないが、商売人の売り手魂にも呆れるものがある。
そうして彼に会釈をし踵を返そうとすれば「これこれ」と、少しばかり声を大きくした露店商に引き止められた。
「何か買っていきなさい」
「えー、そう言われても俺ら仕事中だからな」
顎に手を当てながらそう返したソルだったが、数瞬の後に「あ、そうだ」と思いついたように声を上げる。
「建国祭の時にも店を出すのか?」
「そのつもりじゃ」
「なら、その時に何か買わせてくれよ。さすがにこのガラスは無理だけど」
言いながら、彼は並べられた他の商品を指差した。どうやら耳飾りや首飾りなどの装飾品を取り扱っている店だったようで、おそらく一般的な値段であろうそれらがガラスの影響で破格の値段にも思える。
だがこれを買ったところで、装飾品を贈るような相手もいないわけで。
「……まあ、使い道は追々考えるか」
「そうしよーぜ、じゃあ、また来る」
そう声をかけ、今度こそ皇宮に向かって大通りの真ん中を進んで行く。商品を吟味している背中が次の瞬間にはこちらを振り返り凝視する様は気分が良いとは言えないが、これもまた日常茶飯事。
そうして馬車で通った道を辿り歩いていれば、次第に皇城がその大きな姿を現し始める。
それを見上げながら足を進め次に皇宮の石畳を踏むことが出来たのは、空がすっかり夕焼け色に染まった頃のことだった。