首都の大神官②
当面の間、毎週月・木連載となります。
「……え?」
思わず漏れた声に構う余裕もなく、ルアは大神官の発言を脳内で噛み砕こうと視線を斜め下に落とす。しかし2枚目の手紙の内容と皇宮の馬車を使用したことが、どうして結びつくのだろうか。
そんな疑問で思考が纏まらない中、先に口を開いたのは隣に座っていたソル。
「お…私たちが手紙の内容を知ることってできないんですよね?」
「ええ、詳しくお伝えすることはできません。ですが、要約はお教えしますよ」
彼の話によれば皇宮の馬車使用は予め伝え聞いており、2枚目の機密文書は司式者とは別の『大神官宛の依頼文』。
その内容こそ非公表だが、どうやら最近連続している不穏な事件が関係しているようで。
「神殿は中立であるとはいえ、皇室と神殿の友好関係を知らしめておいて損はありません。そして最も手早い方法は、皇宮からの使者を神殿に送り込むこと」
「…あ、だから」
その言葉で大神官、ひいては陛下の意図をルアは朧げながら理解した。
陛下が先日口にした『反乱軍』の存在と、彼らによって起こされていると推測される事件。
そんな中で『皇宮の馬車』などという滅多に目にすることのない存在が首都内を走った事実は、いずれ彼らの知るところとなるだろう。ましてや、それが向かう先は神殿。
つまり『晒し者』という最も単純な方法で、陛下は皇室と神殿の結びつきを彼らに見せつけたのだ。
「ですが陛下の御心とこの行動がどういう終局に結びつくのか、そこまでは理解が及びません。本当にあの方は……」
そう言いかけた口を閉ざし眉を軽く上げながら、まるでお手上げとでも言いたげに微笑んだ大神官。その光景をぼんやりと見ていれば、不意に手紙を折りたたんだ彼が席を立った。
そして手紙を手にして向かう先は、先ほど火を灯した蝋燭の前。
「私の答えは決まりましたので、必ず陛下にお届け下さいね」
こちらと視線を合わせながらそう紡ぎ、2枚目の紙を躊躇いなく火に焼べる。
途端紙の端からじわじわと黒く炭化していくその手紙の内容を、2人は終ぞ知ることはなかったのだった。
そうして手紙がただの切れ端になったのを確認し、大神官は何事もなかったかのように椅子に戻る。それを黙って目で追っていれば、不意に着席した彼が口を開いた。
「再来月の建国祭後に『神前円卓』を控えていますので、そこで正式な回答を決定いたします」
「神前円卓、ですか?」
「ええ。公爵達の会議があるように、私共にも教皇聖下を筆頭にした会議があるのですよ」
どうやら、先ほどの『依頼文』の内容は他の大神官にも判断を仰ぐ必要のあるものらしい。帝国に三人しか存在しない大神官は一人一人が大きな発言権を持っているが、彼一人では決められないほど重い内容だったのだろう。
「ですが万一、却下された場合は──」
そうして次に続けられた言葉は、大神官ミハエル個人としての回答。
相変わらず笑みを浮かべ続ける男の言葉を、ルアとソルは確かに受け取った。
「では、他にご用件はありませんね?」
「はい。貴重なお時間を頂き、ありがとうございました」
ルアがそう返せば右手を胸に当て、大神官は軽く礼をする。2人が思わず息を呑むほどに洗練されたその所作はまさに、神の代理人と呼ぶに相応しい姿で。
そうしてこのまま何事もなく、神殿訪問は終了するはずだった。
「……あの神官もこんな感じの人だったらいいのにな」
ソルの、微かな呟きが静謐に落ちるまでは。
「ここの神官が、どうかなさいましたか?」
不意に投げかけられた問いで、声がよく届く場所だということに今更気が付いた。同時に、部屋の空気が僅かばかり冷気を帯びたような錯覚を覚える。
そして野生児として生きてきた鋭敏な感覚が、この話題を深掘りすることを無意識で拒んだ。
「……いえ、大したことでは」
「それでも結構です。教えて頂けませんか?」
「っ……」
目の前にいるのは、生まれながらに高貴な立場に置かれた人間。自身らが言葉を返すこと、ましてや大神官側から『お願い』するなど本来ならば許されない。
しかし。
その立場を差し引いたとしても残る有無を言わせぬ圧力は、まるで『答える』以外の選択肢を選ぶ余地すら与えないもの。本当に、先ほどまでの大神官と同一人物なのだろうか。
だがあくまで下から回答を求める大神官に、これ以上の誤魔化しが効く訳もなく。
「……ここに来る途中男性の神官に道を尋ねたのですが、少々気分を悪くされたようで」
「おい、気分が悪くなったのはこっちだろ。なんであんなこと言われなきゃ──」
「黙れ」
瞬間はっと我に返れば、自身に言葉を遮られたソルが唇を尖らせている姿が目に入った。どうやら純粋にあの男性神官が気に食わなかったことによる発言だが、この場での追及は何故か強く憚られる。
しかしやはり、大神官がそこで引き下がるはずもないようで。
「何か、言われたのですね?」
その問いでルアの頭に浮かんだ、彼がここまで食い下がる理由。おそらく、神殿全体としての体面を気にしているのだろう。
だが自身らは皇室の使者であるものの身分は平民。このような場では、たとえ当事者であろうとも話題から省かれることが日常茶飯事だった。
ならば一体何故、こんなにも追及してくるのだろうか。
そして大神官の言葉に返事をするより前に口を開いたのは、隣で不貞腐れたように半目になったソル。
「『平民風情』だ、そうです」
そう答えた、次の瞬間。
ヒュッと、ルアとソルは無意識に呼吸を止める。その視線の先にあったのは紫がかった灰色を宿す、大神官の双眸。
「……教えて頂き、ありがとうございます」
相変わらず微笑を絶やさない彼の冷気を纏った姿で、何かを確実に間違えてしまったことを悟った。隣のソルもまた、移り変わった大神官の空気に呼吸を浅くしているようで。
「私の指導不足ですね。非礼を詫びると共に、特定次第こちらで処罰いたします」
「……え?」
途端、ルアの思考が停止する。
彼は今、『処罰』と言っただろうか?
「っ、お待ち下さい、それほどのことでは──」
そうして口を開いたルアだったが、大神官の瞳に捕えられた瞬間に言葉の続きが喉に詰まる。そんな様子をものともせず、大神官は再度言葉を紡いだ。
「客人に無礼を働くだけでも、神に仕える我々の道理に反します。それに」
灰色の瞳に、仄昏い影が落ちる。
「言ったではありませんか、私も貴方々と同じなのだと」
そうして恐ろしいほどに綺麗な笑みを浮かべた彼を前に、あの男性神官に対する罰がどうか軽いものであるようにと思わずにはいられなかった。
「なあルア、気付いたか?」
「……ああ」
大神官の執務室を後にし出口を目指していればぽつりと、ソルが顔を寄せて言葉を紡ぐ。
そして彼が口にしたのは、おそらく自身が入室から無意識で気が付かないふりをしていたとある事実。
最初から最後まで、大神官の瞳は全く笑っていなかったのだ。
思い返せばずっと微笑を浮かべていた彼だが、瞳の奥は冷え切っていたように思う。
「……初めて見たな」
4年前の陛下即位からこれまで大神官を見る機会こそあったものの、高貴な人間を前にした自身らは決まって頭を深く下げていたため、彼の姿を視認したのは正真正銘これが初めて。
だからこそ。
彼の持つ瞳が、他者に全く関心がない人間が持つそれだとは思いもよらなかった。孤児院に引き取られる前に嫌というほど見てきた、人の命さえなんとも思っていない瞳。
しかし、自身のような孤児を「汚い」と蔑んで見下していた奴らとは確実に違う点が一つ。
奴らの瞳はその奥に澱んだ感情をこれでもかと滲ませていたが、大神官の瞳はどこまでも澄み渡った水面のように凪いでいた。
つまり。
彼の持つ昏さは感情や欲が入り混じっていない、あくまでも純粋な昏さ。
「陛下には友好的でいらっしゃる分、まだ良い方か」
民衆に広く慕われる、首都の大神官。
その神々しい容姿と内に秘める冷え切った感情の落差で悪寒が走る中、神殿訪問は今度こそ終わりを告げたのだった。