姉弟
会話が終わり、携帯をポケットに仕舞うと、
瑜伽は対面に座る人物へ視線を戻した。
「申し訳ありません、瑜伽さん。予定外の電話で、お待たせしてしまって」
「お前……偉くなったものだな」
皮肉とも冗談とも取れる声音に、女性は肩をすくめる。
「立場が変われば、自然とそう見えるだけですよ。通話中と分かっていて座っていたのは、そちらでしょう」
軽く言い返すと、瑜伽は小さく息を吐いた。
「楓さん……無事で何よりです。子供の方も、これから麗さんの家に戻るそうですよ」
「それなら良かったわ。迎えに行く前に、やることがあるから」
そう言った瞬間、空気がわずかに変わる。
「本題に入ってもいいか」
先に口を開いたのは瑜伽だった。
「はい。今回のお店の件ですね」
「本当に、うちに譲渡して良かったのか」
「瑜伽さんなら、信用の立て直しなど簡単でしょう。……それとも、身を固める決意でも?」
疾風がそう問うのには理由があった。
今回、瑜伽は「二人きり」での面会を求めていたはずだ。それなのに、楓を伴って現れた。
もし平穏を選ぶつもりなら、相談相手は――別にいる。
瑜伽は、短く息を吐いた。
「俺たちが“カタギ”になれたとしても、その先に平穏があるとは限らない」
視線を伏せ、静かに続ける。
「だからこそだ。大事なものが出来る前に……この言葉は胸に刻んでおけ」
重い沈黙が落ちる。
やがて瑜伽は、持ってきたアタッシュケースを開いた。
「この中に、必要な書類は一通り揃えてある。足りなければ連絡しろ」
「分かりました。お預かりします」
疾風がケースを受け取り、二人はその場を後にしようとした。
「瑜伽さん。あいつは……いないんですか」
「行くべき場所に行った」
「餌付けしていたのに、逃げられて残念だな」
瑜伽は笑わない。
「会いたければ、あいつに頼め。戻ってきたら……その時は知らせてやる」
そう言い残し、瑜伽と楓は去っていった。
疾風は、残された空間で一人、呟く。
「……遂に、会ったのか」
そして、小さく息を吐いた。
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一方――テンは、自宅へ戻っていた。
玄関を抜け、居間に足を踏み入れた瞬間、
卓の上に置かれたキャリーケースが目に入る。
確認しようと近づいた、その時。
背後から何かが襲いかかる気配。
反射的に身をかわし、掴み、勢いのままソファへ倒れ込む。
馬乗りになって押さえ込んだ相手を見て、テンは呆れたように息を吐いた。
「……なんで、こうなるかな」
そこにいたのは、唯だった。
「姉さん、一度も俺に勝ったことないだろ」
「それは言い過ぎ。子供の頃に一度くらい……」
「それでも、数え切れないくらい俺の勝ちだと思うけど」
唯は言葉を失い、視線を逸らす。
気まずさを破ったのは、彼女だった。
「ちゃんと用意しておいたから。念のため……あれも奥に入れてある」
「ありがとう、姉さん」
素直な感謝に、唯は一瞬だけ表情を和らげる。
「ここまでしたんだから、私のお願い……聞いてくれるよね」
分かっていた流れに、テンは苦笑する。
「姉さん……嫌だよ」
一瞬、唯も笑った。だが、その言葉が意味するものを理解すると、表情が曇る。
「……なんで」
「姉さんのお願いを聞いて、良かったと思ったことがないから」
「……そんなこと、ない」
言い切れず、言葉が途切れる。
「力にはなりたい。でも、俺は姉さんの弾除けじゃない」
唯は何も言わなかった。
沈黙の中、テンは一歩だけ距離を取る。
「すぐじゃなくていい。時間が出来たら……考える。それでいい?」
しばらくして、唯は小さく頷いた。
「……忘れないでよ。絶対だから」
その直後――
「あら、ごめんなさい」
唯は軽く笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
麗は小さく息をつき、子供の手を取り直す。
「……大丈夫」
そう言って、その場を収める。
子供は、何があったのか分からないまま、ただ麗の服を握っていた。
テンはキャリーケースを手に取る。
「じゃあ、俺は行く。三人とも……仲良くな」
子供の頭を軽く撫で、居間を出た。
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夜気が肌に触れる。
玄関の鍵を閉め終えた、その時。
「見送りって柄でもないだろ」
振り向かずに言うと、背後で小さく笑う気配がした。
「これは、私個人の判断です」
そう言って、何かを差し出される。
「使わずに済むなら、それが一番。ですが……持って行ってください」
テンは一瞬だけ迷い、受け取った。
「ジンに怒られるぞ」
「その時は、その時です」
爺やは涼しい顔で一礼する。
テンは何も言わず、夜の中へ歩き出した。




