閾(しきい)
いつものように、町のシンボルを掃除するテン。
ヘッドホンで音楽を聴きながら、踊るような軽やかな動きを見せていた。
――が、その動きが、ふっと鈍くなる。
服を引っ張られる感覚。
振り向くと、小さな子供が立っていた。
テンはヘッドホンを首に掛け、しゃがみ込む。
「どうした。迷子か?」
子供は返事の代わりに、手にしていた紙を差し出してきた。
受け取り、目を落とす。
その背後から、スーツ姿の男の声。
「兄ちゃん、すまない。うちの子が迷惑をかけたみたいで」
男はそう言いながら、距離を詰めてくる。
次の瞬間、子供がテンの服を掴む手に力を込めた。拒むように。
テンは紙から視線を上げる。
「……本当に、あなたの子なのか?」
男が、ぴたりと止まった。
「立ち止まるつもりはなかった」
言葉と同時に向けられた視線が、妙に重い。
テンは、その場に縫い止められたように立ち尽くす。
返答を返す間もなく、男の携帯が鳴った。
男は画面を見て、申し訳なさそうに一度距離を取ると、電話に出る。
数秒で通話は終わった。
男は再び戻ってくる。
「三度、申し訳ない。上司に呼び出された。子供を――少し預かってもらえないか」
テンは答えず、ただ頷いた。
男はそれを見て、足早に去っていく。
テンは、男が消えた方向をしばらく見つめていた。
──────────────────
噴水のある公園。
先ほどの男は、周囲を見渡して目的の人物を見つけると、駆け足で近寄っていった。
「お待たせしました。瑜伽さん」
「呼び出すなんて、どうかしたんですか。例の子供なら、もう少しで回収できましたけど」
瑜伽が短く問う。
「……何か、問題はなかったか」
男は一拍おいて、首を横に振った。
瑜伽は「引き続き頼む」とだけ言い、男は礼をして立ち去っていく。
入れ違うように、瑜伽の携帯が鳴った。
着信は――非通知。
それでも瑜伽は迷いなく出る。
『お久しぶりです、瑜伽さん』
噴水越しに瑜伽を見ながら、電話口の声が続ける。
『率直に聞きます。あなたは今回の件に関わっているんですか』
『こちらから仕掛けるつもりはない。
ただ、そちらが仕掛けてくるなら――相応に対応します』
瑜伽は、まるで予期していたかのように答える。
「……あいつを、つけて来たか」
『仮に関わっているとして。
あなたの実力を知っている俺が、仕掛けると思いますか』
瑜伽の視線が、噴水越しの“向こう”をなぞる。
同じ向きで、電話口の声も何かを見ていた。
『……それでも、部下を少なからず配置しているのは、なぜです?』
「……俺の指示ではないが、そうらしい」
『なら、やめさせてもらえますか。
余計な殺気を飛ばされると――殺してしまいそうなので』
冗談に聞こえない声。
瑜伽は短く息を吐いた。
「ああ。そうさせよう」
瑜伽はポケットから丸いものを取り出し、足元に落とす。
靴で覆い、何食わぬ顔で踏みつけた。
――破裂音が響いた。
『……』
通話の向こうで、何かが止まる気配がした。
瑜伽は話を戻す。
「ところで。その子をどうするつもりだ。こっちに渡す気はないのか」
噴水越しに、圧が乗る。
『無理ですね。分かってて言うんだから、タチが悪い』
『俺に託した以上、瑜伽には渡さない。
この子は警察に任せる』
「そうか。なら諦めるとするか」
瑜伽が、ふっと声を落とす。
「……お前は、この件から手を引くのか」
『確認したいことがある。終わり次第、手を引く』
『……もう行きます』
通話が切れる。
瑜伽は携帯をしまい、ベンチに腰を下ろした。
ほどなくして、周囲に配置されていた部下たちが集まってくる。
「全員、確認できたと思うが――
あいつには、絶対に手を出すな」
部下たちが息をのむ。
「俺の警告を無視して手を出せば、ただじゃ済まない」
その言葉だけで、十分だった。
瑜伽はさらに言い切る。
「この町で、あいつに敵う奴はいない」
部下たちは衝撃を隠しきれないまま、それぞれの持ち場へ散っていった。
ひとりになった瑜伽は、携帯を取り出して短く電話をする。
「俺だ。頼みたいことがある」
通話を終え、立ち上がる。
噴水の縁に座る存在に気づき、近寄った。
「……どうした。あいつが気になるのか」
返事はない。だが、静かに頷いた。
「そうか。なら、したいようにしたらいい。
駅に向かえば、姿を現すだろう」
瑜伽は相手を見下ろし、淡々と確認する。
「金は、持ってるか」
その存在は服のポケットを探り、両手を前に出した。
出てきたのは――お菓子と小銭。
瑜伽は驚かず、財布から必要な分だけ抜き取ると、財布ごと渡した。
「大事に使え」
子供のような人物は、何度も頷いた。
「……行ってこい。
もし受け入れてもらえなかったら、いつでも帰って来ていい」
子供のような人物は礼をして走り去る。
完全に見えなくなる直前、立ち止まって振り向き、手を高く上げた。
瑜伽は振り返さない。
だが、いつまでも振り続ける姿を見かねて、最後に一度だけ手を上げた。
それを見て満足したのか、子供のような人物は消えていった。
──────────────────
警察署へ向かう途中。
子供の持っていた玩具が動かないことにテンは気づく。
テンは玩具を借りて確認し、子供と一緒にコンビニへ寄った。
電池や必要なものを買い、外へ出る。
歩きながら、テンは玩具に電池を入れ替える。
「……やっぱり、そういうことか」
独り言を落とし、玩具を子供へ返した。
子供の表情が、明るくなる。
テンは子供の頭を撫でる。
「必ず、母ちゃんを連れ戻すからな」
子供は屈託のない笑顔で頷いた。
─────────────────
警察署に着く。
中に入った瞬間、目に飛び込んできたのは――
複数の警官に取り押さえられ、今にも暴れ出しそうな女性だった。
テンはため息をつく。
「お前は……外だけじゃ飽き足らず、署内でも暴走するのか」
女性は怒り狂ったままテンを見つけ、警官を振り切って突進した。
胸ぐらを掴む。
「なんで、あんたがここにいるのよ。
こっちは今、物凄く機嫌が悪いのに」
テンは掴まれた手を外そうとしながら、もう片方の手を静かに差し出した。
女性の言葉が、一瞬止まる。
「……何よ」
視線が、自然と下に落ちた。
そこに、子供がいた。
「……君、大丈夫? この人に変なことされてない?」
女性はテンの胸ぐらを離し、子供の目線に合わせるようにしゃがみ込む。
子供は戸惑いながらも、こくりと頷いた。
テンはその様子を見て、呆れたように口を開きかけた――が。
「やっと来たか。思ったより遅いじゃないか」
鴇冬の声がかかった。
「麗君の方は随分と早く着いたみたいだけど、仕事の方は平気だったのかな。
急なお願いだったから、無理だと思っていたんだけど」
テンが答えようとする前に、麗がさらりと言う。
「大丈夫です。鴇冬さんの頼みなら、仕事を片付けて馳せ参じますよ」
テンの眉がぴくりと動く。
鴇冬は麗に応じながら、テンへ視線だけで「抑えろ」と訴えた。
テンは息を吐き、視線を逸らす。
麗がテンの横を通り過ぎるとき、ぽつりと落とす。
「……ほんと、変な間を作る人」
「俺のせい?」
「さあね。
でも、あんたがいると――何も起きてない顔する人が増える」
テンは返さない。
代わりに、足元の子供がテンの服を引いた。
テンは「感謝」の代わりに子供の頭を撫でる。
子供の手に、また力がこもる。
鴇冬が本題に入った。
「子供をテンの元に向かわせ、無事に合流させたあと――
受付に“私宛の荷物”を渡して、楓君はそのまま署を出て行ってしまった」
「推測だが……追っ手の目を子供に集中させないために、署から出たんだろう」
麗が眉を寄せる。
「……どうして、楓さんがそんなことに」
「どうやら……店側にとって都合の悪いことを知ってしまったからかもしれないね」
鴇冬は続ける。
「麗君を呼んだのは、楓君を探し出す間――
楓君の子供を任せたかったからだ。お願いできるかな」
「分かりました。鴇冬さんの頼みなら」
テンは子供を麗へ預けた。
テンから離れるのが不安そうな子供に、テンは目を細める。
「俺より頼りないかもしれないけど……必ず守ってくれる。大丈夫だ」
子供は頷く。
テンは麗に視線を向け、短く言った。
「数日、家を空ける。家のことは唯に任せてある」
言い終えると、テンは出口へ向かって歩き出した。




