シセン
部下は人波に紛れ、遊園地の入口から足を進めた。
混雑する通路の中、突然飛び出してきた子供を避けようと身を躱す。
だが、他の人にぶつかりそうになり、振り向こうとした瞬間、子供は親に声をかけられ、すぐに対応されてしまった。
相手を確認する間もなく、部下はそのまま上司の座るベンチへと向かう。
賑わう声が絶えない遊園地で、男たちは距離を置いてベンチに座っていた。
お前に任せてた件、今まで通り取り引きしてもらえるようになった。
部下は軽く頭を下げ、意思を示す。
上司は短く言葉を返す。
「その必要はない。これは会社の総意だ。今回の件に当たる前に伝えた通りだ」
上司は、言葉を出さずに頷く。
間を置き、倉庫の件に目を向ける。
「借りた倉庫は……どうだったか」
部下は少し息を整え、言葉を選ぶ。
「私達の倉庫と大差はありません。ただ、やはり一番の違いは治安でしょうか」
上司は静かに頷いた。
「なるほど。本当にそれだけか? 他に問題はなかったか」
部下は一瞬、視線を床に落とす。
指先が軽く震え、声を出す前に小さく息を吐いた。
そして覚悟を決めるように目を上げ、上司に視線を合わせて低く告げる。
「実は……裏の者が現れ、倉庫を乗っ取られました。ただ、警察沙汰にはしないと約束させました」
部下の申し訳なさそうな態度に、上司は小さく呟く。
「あいつらが、言葉通りに従ってくれたらいいな」
言葉は部下に向けられず、視線は人混みに流れる。
その様子を、部下は静かに観察する。
小さく息を整え、自然に視線を人波の方へ向ける。
目の前を行き交う恋人や家族は、皆、あいつの言うEMFの向こう側にいるのだろう。
俺たちはどうだ――
この境界を、越えられるのか。
だが、思考を割く場面じゃない。
そう自分に言い聞かせて、
彼は視線を人波の中へ戻した。
……お前は、あっち側に戻りたいと思ったことはないのか。
部下は、すぐには答えなかった。
人波の向こうを一度だけ見て、
それから視線を戻す。
「ありません」
言葉は短く、迷いもなかった。
上司はその言葉を受け、部下に一度だけ目を向ける。
だが何も言わず、視線を再び人込みへ向け直した。
遊園地の喧騒は途切れない。
二人の間にだけ、言葉を必要としない沈黙が残っていた。
二人の視線は、同じ方向を向いていながら、重ならない。
それで十分だった。
一滴の水滴が落ち、波紋が産まれる。
……今?
指先が、冷たい縁に触れた。
「……もしもし」
返事を待つように、間を置く。
「急ぎじゃない。聞ける時でいい」
声が、わずかに低くなる。
「アレは俺が持っている。だから、気に留めるな」
そこで一度、息を吐く。
「折り返しは、いらない」
彼は、そこで声を止めた。
「……ずいぶん、早かったな」
背後でも、前でもない。
山の中に、声だけが混じる。
「道、迷わなかったか」
彼は小さく息を吐いた。
「今回は、案内が良かった」
栗鼠はひと鳴きすると、肩から跳び降りた。
それを境に、見えない気配がゆるやかに遠ざかる。
二人が揃ったことで、
安心した名残がわずかに残り、
森は元の静けさを取り戻した。
山奥の人物は、それを見届けてから口を開く。
「……まだ時間は平気だろう。ここだと、身体に差し障る。場所を移そう」
「呼ぶのが、早かったな」
二人は言葉を交わさないまま、歩き出した。
足元を気にする必要はなかった。
ここでは、道はいつも向こうから寄ってくる。
「今回は、静かだな」
「お前が来たと、分かったからだろう」
内と外の境がほどけたあたりで、
行き交う気配の中に、彼の足取りが溶ける。
いくつかの目が向けられたように思えたが、
それ以上のことは、起こらなかった。
主はそれらを気に留める様子もなく、歩みを止めない。
いつしか、彼の歩調もそれに揃っていた。
主は足を止めることなく、一つの家へと彼を導いた。
戸を閉めると、外の音はすぐに遮られた。
火の気配が、室内に均してある。
主に導かれるまま、彼は卓のそばに腰を下ろした。
ほどなくして、飲み物が前に置かれる。
彼が器に口をつけた、その時だった。
「今日は、泊まって行かぬか」
彼は、呼ばれる気がしていた。
ここへ来たのは、答え合わせのためだ。
器の中身を確かめるように、一度だけ目を落とす。
考えは、そこまでで止まっていた。
主は、その返しを待っていたようでもあった。
返答が終わる前に、向きが変わった。
主と彼のあいだに、わずかな間が生まれた。
誰も、それを詰めようとはしなかった。




